「アポカリプスは俺にとっちゃ友達だ。俺はアポカリプスを感じるし、俺たちは隣り合って育った……。」/エドゥアルド・ヴェルキン『サハリン島』

「アポカリプスは俺にとっちゃ友達だ。俺はアポカリプスを感じるし、俺たちは隣り合って育った……。」/エドゥアルド・ヴェルキン『サハリン島

 

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サハリン島』を読みながら『鯨』(チョン・ミョングァン)のことを思い出したのは、私に暴力描写の経験値(読む方)がないからだと思われる。物語の全貌を知っていたら果たして?と読み終えた後に良くも悪くもぼうっとしてしまった人間が『サハリン島』を手にとったのは、本屋で立ち読んだ冒頭の文章に惹かれたからです。『わたしたちが光の速さで進めないなら』が短編集だったので、分厚い長編SFもいいかなと思ってしまったのが運のつきだったのか、はたまた。

 

空想にふけりすぎなのだと思う。

我が家に代々伝わるマッキントッシュのレインコートは、色あせた濃い濃い緑色。よく目立つ赤い脈のような線やまばらな金色のスパンコールがついていて、まるで油のしみ込んだモロッコ革のそのコートの中に透明な肉体が現れてその内部が透けて見えるかのようだ。落ち着きのない若い神々の時代には、馬鹿なドラゴンの上瞼からこのようなコートを縫ったものだ。マケドニアの不屈の騎兵達の血でなめし、スパルタの女達の涙で塩漬けにされたドラゴンの上蓋。

 

 

旅に出る主人公は、レインコートをよくよく検分し、そこに先祖代々の持ち主の冒険の痕跡を嗅ぎとる。補修すべき穴には布を当て、さらに自分に馴染むよう丈を詰めるか考えたのち”時の洗礼を受けた機能を怪しげな美学で壊すのは野暮というもの”と思いとどまる。

この一連のディティールにやられて先に読み進めてしまうと、描写の「ていねいさ」、しつこく探る視線が暴力行為や人間の差別的な言動に向いたときにうっと立ちすくんでしまうので注意が必要。しかし映像だったらかなり厳しい描写を、最初は立ち止まりつつ次第にそういうものとして受け入れてしまうのはなんでなんだろう。かといって俗世を忘れて面白さにどっぷり浸れるかというと、これが「エンタメ大作」として発表されていることに、まじか……と慄きもする物語。

 

遅ればせながらの簡易なあらすじ。

舞台は北朝鮮弾道ミサイル発射により勃発した第三次世界大戦後の世界。

太平洋全域を制圧し大日本帝国として返り咲いた「日本」の保護下にあるサハリン島は、犯罪者たちの流刑地となっていた。ロシアと日本にルーツのある主人公シレーニは、未来学者としてサハリン島へフィールドワークに向かう。

島でのボディガードとして手配された銛族の青年アルチョームとともに各地で目撃する光景、刑務所にすむ人物たちとの出会いは彼女に強烈な印象を与えるが、道中発生した自然災害が引き金となり、旅は思いもよらない展開を迎える。シレーニら一行は島から無事に抜け出せるのか、彼女らの運命はいかに?

 

あらすじを聞いただけでぎょっとする人も多そうだし、私もそちら側の人間です。

寡聞にも、チェーホフが同タイトルで執筆した旅行記録および流刑地調査記録(18931895年)であるルポタージュ本の存在を知らなかったのだけど、その『サハリン島』を意識した本作は、物語の流れ以上に、島で出会う人々、風習が丹念に描かれている。

 

その人々や風習の具体例を挙げることが憚られるのは、太平洋全域を制圧し大日本帝国として返り咲いた「日本」で暮らす単一民族、という意識が肥大化した日本人が他民族や犯罪者へ差別的な言動を繰り返す様子がすぐそこにあるものとして、シレーニの目を通して描かれているので、その一つ一つの事例を羅列しただけでは、ただ差別を内包する構造を許容して面白がっている物語のようにとらえられてしまう危険性があるから。

 

島には犯罪者だけでなく、刑期を終えた自由民と呼ばれる人々や、給与面での好待遇を期待して島での仕事に手を挙げた人々、朝鮮人、中国人が住んでおり、日本人の他民族への日常的な差別や、人々の鬱屈を晴らすため彼らが生贄のように扱われる様も描かれている。

 

訳者あとがきにも差別を許容する意図はなく、あくまで「大日本帝国」が再建されたという設定に基づく世界で生まれる民族による階層化、蔑視を描いたとの記載があったけれど、作者にその意図がないにしても、現在の日本で生きる、ルーツで差別を受けることのない側の日本人の一読者としては、加害者側の意識の持ち合わせがないか常に探られているような、強烈な風刺が含有されている物語のように感じ、落ち着かなさを終始噛み締めていた。ラストへの運びも、物語の設定上予想できたものだったにもかかわらず、そういう視点込みで読んでしまったせいか非常に衝撃的で、過度にしつこいとも思える旅の背景、そこで生きる人々の風景の描写は、読者にこの展開を「体験」させるためでもあったのではと思ってしまった。

 

本作の設定から、読者が日本とロシア間の領土問題を意識することは当然のことなのだろうけれど「日本の保護下」に置かれているサハリン島が舞台の物語がロシアの作家によって書かれ、その設定がロシアの読者にどのような印象を与えるのだろうということがとても気になってしまう。そしてその「日本」は欧米を抑えて世界で唯一の一大工業国となった、かつその再建の性質から他民族への差別が凄まじい野蛮な国である、という設定のSFがロシアで出版された、その物語が日本語に翻訳され、私はその本を手にとっている、という構造に、日本の一読者のわたしはくらくらしている。

 

じゃあなんで読み通したんだと問われれば、やっぱりこの物語が面白かったからに他ならない。興味本位でシレーニの一同行者を請け負ってしまった、一緒にサハリン島を歩き回る仲間のように、別に全然知りたくないと思っていた各地の刑務所の内部を見回るうちに、「ぶちのめされる」ある人々の光景を見るたびに、この「地獄」のような世界は「地獄」ではなく、むき出しの人間を煮詰めていった、未来の分岐点の先に確かに存在するもしもの世界では?という突き放せない距離まで近寄って眺めてしまう感覚。さながら本作に登場する、水とMOB感染者のような。

 

シレーニという主人公は、一見冷静な目で島に住む人々の言動を捉え、読者の目となる存在のように思えるけれど、その様子を野蛮なものと認識することはあっても、彼女自身がその構造について過度に批判的な意見を持つことはなく、改善を促すようなアドバイスをすることもない。それどころか「ぶちのめし」に未来学者として興味を覚えすらする。また、殺人を厭わない淡々とした様子、巧みな銃の扱いは「そういう世界だから」と読者を納得させる以上の印象を残す。

彼女はあくまで観察者で、「サハリン島」の外に生きる人間としての立場を崩さない。けれど同時に「サハリン島」という機能を持った島が存在する『サハリン島』の世界の住人であり、その世界を外から眺めることができるほどの超越した立場の人間ではない。

 

 

(承前)島はな、流刑地じゃなくて、蒸留器なんだ。放射線とか飢えとか病とか、それは単に触媒なんだ、成長の要なんだ。移行のためには、ある点が、きたるべき世の粒が必要なんだ。その周りに荒れ狂う明日という日が燃え上がる、そんな点だよ。そんな点をいったいどこで手に入れられる!?(p.258

 

チェーク(チェロヴェーク)という、ロシア語で「人間」を意味する名を持つ烈しい老人がシレーニと交わす会話には、この『サハリン島』という世界の構造を捉えるヒントになるようなエッセンスが含まれているように感じた。

 

また、ここまででは倫理観・道徳観の狭間でウロウロしながら構造を眺める話を主にしてしまったけれど、この物語を面白く感じたのは、一見筋道だったやり方で細やかに語ることによって、もしかしたら現実にあるのかもと思わせる設定、各地の刑務所の内部や人物造形を積み重ねることで生まれる一つの世界の作り込み方、「ない話」を「ある話」に見せかける魔術師か詐欺師か、という鮮やかなやり口に魅了されてしまったのもある。特に印象的だったのは、建築家チカマツによって設計された囚人たちの理性を奪う刑務所〈軽やかな空気〉、高校生のシレーニにその詩の素晴らしさを印象付けたシンカイシロウの設定。panpanyaクラフト・エヴィング商會の、語られることで現実との境界線が曖昧になる感覚に、そのある種の恐ろしさに魅了されている人には向くかもしれない。

 

その細やかな描写の合間に、民間伝承として語られるトイレのヒロコやシュノーケルが突如せり出て川を渡れる車etc. わかってやってるだろ!?というツッコミ不在のネタが入り込んでくる目の話せなさもあります。

 

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「私たちは宇宙に存在する孤独の総量をどんどん増やしていくだけなんじゃないのか」/キム・チョヨプ『わたしたちが光の速さで進めないなら』

「私たちは宇宙に存在する孤独の総量をどんどん増やしていくだけなんじゃないのか」/キム・チョヨプ『わたしたちが光の速さで進めないなら』

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 SFを読むときに求めているものについて考える。
 その少し未来の物語が、過去の誰かが思い描いた夢に支えられていること。夢の内訳。叶ったこと、叶わないこと。技術の発展だけではカバーしきれないもの。人間の欲求と愚かしさ。

 少し角度を変えて考える。

 科学技術が発展した少し先の未来はどんなものか。社会はどう変わるのか、「豊か」になるのか。そうだとしたら、その「豊かさ」を受け取れるのはどういう人か、「豊かさ」の有無は人々の生き方にどう関わってくるのか。「豊かさ」にはどんなバリエーションがあるのか。

 理想だけじゃ物足りなくて、現実だけじゃしょっぱすぎる。
キム・チョヨプ『わたしたちが光の速さで進めないなら』は、そんな両方の要素のバランスが心地よい作品が多くおさめられている短編集だった。

 

 表題作、『わたしたちが光の速さで進めないなら』は「遠い星へ出航する船を宇宙ステーションで待ち続ける老人」という、人によっては懐かしさでそわそわするような設定を軸に、主にその老人の語りに耳を傾ける、終盤まで正体が明かされない若者の視点で進行する物語だ。

 どこか馴染みのあるような設定。老人が聞き手の若者に語る、自分が研究者として活躍していた時代の話は、若者の視点では「昔」話でも、読者の私たちの時間軸からは、まだ見ぬ未来の話だ。彼女が生き生きと語る、人類が宇宙に見出す普遍的な夢の形に、その夢を手中にしたいという情熱に惹きつけられ、読者である私は、物語の時間軸の過去から照らされるときすでに「今」として固定されている未来が、彼女の望むようなものであるよう願ってしまう。
 同時に、人類が宇宙へ踏み出すという夢のあり方自体を、繰り返し語られてきた普遍的な願いととらえ、そこにかつて読んだことのあるSF作品や、現実の宇宙への展望を見出し、郷愁を覚える。
 
 その一方で気にかかるのは、過去の時間に一人取り残されたように生きる老人を、そこに取り残したものはなんなのか、ということ。老人ーーアンナによって語られる、彼女自身の選択と、時代が要請したもの、そして少数の個人を置き去りにする、政府が決定した政策のあり方に、私たちは「懐かしい」では片付けられない、現実の延長線上にある未来をそこに見出す。

 宇宙を旅するという人類の夢の実現のためにも、先立つものは必要不可欠という事実をこの物語は淡々と示してもいる。より経済的な手段が発見されることで、これまでの研究は古くて後進的なものになる。政府の「経済面」での選択は、アンナの研究予算を大幅にカットするだけでなく、彼女が家族の住む「遠い星」へ行く手段をも奪う。

 ある目的を遂げるための新たな技術が見出され、人類が大きく躍進するとき、時代遅れの技術は、その研究者は不要となってしまうのだろうか。
 時代に取り残された技術とともに、宇宙ステーションに取り残されたアンナ。夫と子どもがいる星へ出航する船を長い間待ち続ける、待つ、という行為にかってに切ないものを見出してしまいそうになるけれど、自分自身の研究成果を身を以て証明し続けることにすべてを注ぐ彼女の生き方は、もっと激しい「待つ」の能動性を訴えかけるものでもあるように感じる。

でも、わたしたちが光の速さで進めないのなら、同じ宇宙にいるということにいったい何の意味があるだろう?
p.156

 アンナの最後の選択は、それを許してしまった「若者」の脇の甘さは、物語としてある意味での予定調和だとは思うのだけど、同時になりふり構わない過激さも有していて、リアリティと飛躍のバランスに胸がすく。個人では動かしがたい状況が存在することをきちんと描きつつも、その状況下で生きる人間の出来うる限りの選択が描かれている物語に希望を見出す。

 若者から老人の語りで進む物語という形式自体が、すでにオールドスタイルでは?という見方もあるかなと思いつつ、作品に漂う懐かしさと物語の語り方に齟齬がないように感じること、また語り手が女性の研究者である、というところに既存の性役割分担への意識的な反転を見出し、個人的には好意的に解釈していた。気難し屋で孤独な老人(女性)が生き生きと描かれる作品に勇気付けられる、というのもある。

 

以下、他の短編についても簡単に記します。

 

「巡礼者たちはなぜ帰らない」
 収録1作目だったので「帰らない」理由がホラー寄りだったらどうしようと怯えながら読んだところ、「怖さ」がないとは言わないけど良い意味で裏切られた作品。
 村で生きる主人公の視点は読者の私たちとは異なる、その差異を読者に気づかせないように物語を進めるには、小説という方法が一番適しているのかもしれない。文字情報のみを表現手段とする小説の、作者が作品の情報をコントロールできる範囲について改めて考えた。
「○○(巡礼地)に残る理由は、たった一人で十分だったのよ」という言葉。主人公のデイジーが物語終盤に語る理想は青臭く、一人称の語りによる盛り上がりもあるのかもしれないけれど、設定の妙もあって、その理想の世界を信じてみたくなる。

 

スペクトラム
 そういうふうに生まれついたから、と種の連続性を見出すのではなく、個人の選択として、他者と一緒に生きようとする、個体のあり方の描き方に惹かれる物語。

 

「共生仮説」
 私たちの利他性の育まれ方についての話。忘れている懐かしい景色があるのかもしれない、という想像は、多くの人にひどく懐かしく慕わしい想いを抱かせる。

 

「感情の物性」

「もちろん、そうでしょうね。あなたはこのなかで生きたことがないから。だけどわたしはね、自分の憂鬱を手で撫でたり、手のひらにのせておくことができたらと思うの。それをひと口つまんで味わったり、ある硬さをもって触れられるようなものであってほしいの」p.188

インスタ映え」というフレーズが出てきたり、他の短編よりぐっと身近な、「未来」というには数年先、いやどこかの国ですでに発生しているような物語に思えた。自分の感情の拠り所のなさにうんざりして、上記のような台詞に近い感情を抱いた人は少なくないのではないだろうか。

 

「わたしのスペースヒーローについて」
 それまでの物語で膨らませた「宇宙」へ人類が到達するという「偉大」な目標への夢を、ある意味破壊してくれる、本短編集のために書き下ろされた作品ということだけれど、トリを飾るのにこれ以上ない作品では? 宇宙に到達することは手段であって目的ではない、ということ。当たり前かもしれないけれど、改めて示されるとハッとするし、しかし他の星から星への移動が描かれている作品も、よくよく考えたら同様の趣旨が当たり前に盛り込まれているんだなと気づいた。その先で何を成したいかということがあっての「遠くの宇宙空間へ到達する」という行為。そしてその「人類の共通の夢」を共有しなくてもいいという選択が鮮やかに描かれるということ。海へ飛び込む軌跡を見たいと思ってしまう。

 主人公のおばさんが宇宙飛行士に選抜される過程での性別・人種のクオータ制導入に対する非難や、様々な人の期待を背負った彼女がその期待を裏切った理由についての推察、おばさんを「ヒーロー」と慕う主人公のおばさんへの思いの変化、どの短編にも言えることだけれど「今」の要素を盛り込んだSFかつ、その要素を物語としてうまく生かした作品で、今こういう作品が読めることがとても嬉しい。

 

「館内紛失」
 この物語で描かれる「図書館」のイメージが面白くて、この設定だけで連作短編集ができそうだと思った。インデックス=請求記号分類のようなものと理解。「マインド」というデータの認識についての議論含めて、この設定を理解した読者向けに別主人公で短編を書いてほしい。
 と思ったのも、他の短編集の着地点を思えばこの物語もこういうところに落ち着くのはわかるのだけど、母と娘の関係性が描かれた作品という意味では予定調和すぎた感もあったので、他の設定主人公の話が読んでみたいと思ったから。「紙の図書」がキーアイテムとして登場するのもおもしろい要素なので、連作を安易に望むのは違うかもしれないけれど。数年後に読んだら、もしかすると違った印象を持つかもしれない。
 また、作中の「ジミンのお母さん」という言葉に(訳注:韓国では子を持つ親を、本人の名前ではなく○○〔子の名前〕のお母さん、またはお父さんと呼ぶことが多い)という注がついていて、これは日本語版で注が必要な箇所と訳者の方が判断されて…?それは日本の読者には通じないという前提で…?とショックを受けた。
 このショックの内訳は「日本では誰かの親になったとしても、個人を個人名で呼ぶという個人を尊重した習慣が根付いている国と思われているのかも」「あるいは大いなる皮肉か」「韓国はそういう理由の呼ばれ方にネガティブな意味がないのか」などです。

男の傍らの女たち / インゲ・シュテファン『才女の運命』

男の傍らの女たち / インゲ・シュテファン『才女の運命』

 

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 天才と賞賛されてきたさまざまな男性たちの影で才能を搾取されてきた女性たちの人生を掘り起こす本なのだけど、なんだか読んでいてひたすらに落ち込んでしまった……それぞれの人物毎に、文章量としては読みやすくコンパクトにまとめられているのだけど、ひとりひとりの女性の人生に降りかかってくる出来事の過酷さに、ひとり分読み終えるごとに何かを背負った気持ちに勝手になってしまった。もっと実際の記録を引いて細かく深く書いてほしいと思う部分もあるけど、本書で取り上げている「才女」の人数を考えると配分としてはこれくらいがいいのかもしれないし、才能ある女性たちの人生の一部を、大部分を、ある意味養分として成功の花を開かせた男性たちよりも、彼女らについて残されている記録が圧倒的に少ないから、ということもあるのかもしれない。

ケイト・ザンブレノの『ヒロインズ』がとても頭をよぎると思っていたら、訳者あとがきにまさに名前があげられていた。曖昧な書き方だったけれど、『ヒロインズ』の刊行が、本書が再販されるきっかけになったという意味だろうか。

 

 彼女たちの多くに共通する体験として、幼少期から才能ある父親に見出され寵愛(今の感覚からすれば虐待と紙一重な教育も含む)されていたため、母親より父親に執着心を抱き、それゆえにパートナーの男性にも父親に求めるものと似たものを求めることになる、というエピソードがあった。初めは父親と同じく女性たちの才能に惹かれていた男性たちが、結婚によって掌を返したように彼女らに才能を投げ捨てさせ、妻としての振る舞いを求めるようになるその皮肉。全員が全員、結婚当初から掌を返すわけではなく、もう初めから全然だめだろ!?という浮気男のトルストイのような事例もあれば、初めはかなり対等なパートナー関係を築いていたように思えたのに子どもが生まれた途端アインシュタインよお前もか、の事例もあって、天才男のパートナーに対する振る舞いフローチャートが作れそう。

 

 カミーユ・クローデルの章では、以前『GOLD』というカミーユ・クローデルが主人公のミュージカルを観たときに、ロダンにひたすらにムカついていたことを思い出した。主人公がカミーユだったのもあるけれど、自分の感じたむかつき度合いとして、ロダンを必要以上に偉大に書いて、カミーユを矮小化させる、という作品にはなっていなかった記憶がある(カミーユの新妻さんもロダンの石丸さんも素敵でした)。しかし本書を読んでから今見返したらどう思うかはわからないなとも思う。同じ分野の芸術家同士が愛し合い共に暮らすことは難しいと、性別により背負わされるものの差異ではない方向に読み解いていた記憶もある。

 また、カミーユはその作品が本書で紹介されている女性たちと比較すれば数多く残っていて、現代では光が当てられている芸術家だと思うので、本人の日記や手紙等の記録or作品が残っている、残っていないということはやはりとても大きいのではないだろうか。例えば公文書なら、他の部分がきちんと「ある」のに、その一部分が「ない」ということで浮かび上がることもあるだろうけれど、個人の記録でその大半がない、となると膨大な空白の前に立ち尽くし、思いを巡らせることしかできない場合も多いと想像する。

 

 また、クララ・ヴィーク=シューマンの章を読みながら、以前シューマン夫妻とブラームスが登場する宝塚歌劇の作品を映像で見たことを思い出した。クララもまた、父親に才能を見出され、虐待と紙一重の教育を受けた女性であること(本書を読んだだけだとモーツァルトのような英才教育だなと思った)、加えて、理想の関係を築いていたように認識していた彼女の夫であるローベルトとの理想的とは読み取れなさそうな数々のエピソードを知ると、才能ある故人(男性)を物語の中でより理想化して描くことの是非について考え込んでしまう。クララが才能がありながら家庭に縛られていること、家族に奉仕する立場であることの苦しさのようなものを一切排除した演出ではなかったけれど、宝塚歌劇の場合、作品内で比重のある役はどうしても魅力的に、クリーンな存在として描かれがちだ。観客もそこに夢を投影してしまうことが多い分、物語の都合上、脚色している部分が多いという前提であっても、これからの時代、本書で取り上げられている女性たちのパートナーのような男性を主役や、それに近い位置に据えて、真正面から描くことは難しいのではないかとも思った。

 

 ゼルダ・セイヤー=フィッツジェラルドの章では、ギャツビーですでに減退していたスコットの本を読みたいという気持ちがもうほとんど消え失せていきそうになった。ゼルダの手紙や日記の文章はとても好みで、彼女の作品を手に取りたくなったけど、スコットの本を読んでも、この文章を継ぎ接ぎしたものに出会えるのか家庭内盗作と思ってしまって複雑。

 

 読み終えた直後の頭の中に、才能ある女性が大成できなかったという事実への悔しさと「内助の功」を求める時代の男たちへの憎しみが渾然一体となってドロドロと渦巻いている。さすがに本書に書かれた時代の女性たちよりはマシになっている、なっていてくれと願いながら、「内助の功」でGoogleニュース検索したらその勢い衰えず、という状況でうわーっと叫び出したい。女性の活躍の場という意味では前進しつつある(?)ものの、後者を求める才能ある/ない男性はまだまだ絶滅しないことについて考えるとき、私の頭に浮かぶのは「外注」の2文字だけど、全てそういうわけにもいかないのだろう個別の様々な事情を思う

 取り上げられている女性たちが男性たちが大成するために行った奉仕の大きさを知ると、男女によらず、天才と称される人の傍らには、シャドウワークに徹する誰かがいて「天才」と呼ばれる人は、才能がただしく機能するための全体の構造の一部分、噴出口でしかないのでは、と思ってしまう。もちろんいろんな「天才」の形があるので一概には言えないのだけれど、誰かの圧倒的な負担の上に成り立つ才能を、その功績を圧倒的な負担を知ってなおありがたがれるのか、ということに思いを馳せた。

この目は閉じられているのよ、見るために。/J・M・クッツェー『鉄の時代』

J・M・クッツェー『鉄の時代』

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翻訳家のくぼたのぞみさんの名前をアディーチェの作品で知り、サンドラ・シスネロス『サンアントニオの青い月』『マンゴー通り、ときどきさよなら』の文章に強く惹かれてから、いつか同じ方が訳したクッツェーも読んでみたいと思っていた。

 

『鉄の時代』はアパルトヘイトが崩壊し始めた1986年、南アフリカケープタウンの白人住宅街に住む、末期ガンの70歳の女性、ミセス・ヘレンが娘に宛てた手紙の形式をとった物語だ。彼女の自宅の敷地に現れたホームレスとの交流、対話、彼女の独白から、娘への、子どもへ、そして具体的な誰それ、と名がついていない、旅立った世界に残していく生命への愛と執着が浮かび上がってくる。

そしてそれは同時にこの地で、白人住宅街で生きていることの意味とも結びついていく。

 

離れて暮らす最愛の娘に宛てた手紙という形式も作用していると思うけれど(作用させるためにこの形式を筆者は選んだ、が正しいかもしれない)、主人公のカレンの、人生において愛情を傾けるもの、自分がこの世界から旅立った後も残る形見のような存在の重要性を語る淡々とした独白に、彼女にとっての子どもという存在の比重に驚く。

 

「抱擁し、慰め、救ってほしいと頼むなんて。慰めも、愛も、先へ先へと流れるべきものであって、後ろ向きであってはいけないの。それがルール、いまひとつの鉄則よ」

p.107

 

「あなたに子どもがいるかどうか知らないけれど。男の人がそうなのかどうかも知らないけれど。でも、自分の身体から子どもをうみだすときは、その子どもに自分の生命をあたえることになるの。とりわけ最初の子には、最初に産む子には。あなたの生命はもうあなたと共にあるのではなく、あなたのものでもなく、その子と共にある。だから私たち、本当は死なないーー」

P.111

 

血を分けた子に限定した愛情深さを過度に感動的に語る語り手には、その人物の性別を女にした小説には特に身構えるたちだ。けれど詩的な、豊かな表現で書き記される彼女の愛情が、「手紙」が書き進められる中で、実の娘だけに限定しない広がりを見せていくので、その行先を見届けたくなってしまう。

 

それはもうすぐ命が尽きようとする側が、自分がまだ見ぬ道の先へ進む若者を眩しく見つめ、そこに自分の生きていた証をわずかでもいいから残したいと焦がれると同時に、その人たちの生に対して責任を果たすことなのかとも思う。

 

「お願い、聞いて。わたしは無関心ではないのよ、これに……この戦争に。そんなことは不可能よ。それを締め出しておけるほど、分厚い柵はないんだから」泣きたかった。でも、ここで、フローレンスのそばで、そんな権利がわたしにあるのか。「それはわたしの内部で生きていて、わたしはその内部で生きているのよ」ささやくような声になった。

p.151

 

カレンから誰かへの言葉は、老いた人間から、年若い人たちへという構図だけを取るのではない。

「絆」で結びついた反アパルトヘイト組織で暗躍する少年に、彼らをその「絆」へと駆り立てる大人に、カレンが鋭く言葉を投げかけるその構図は、女性による、男性性の負の側面、悪しきホモソーシャルへの指摘とも読める。

 

「老人の話にたいくつしてるわね、わたしにはわかるわ。早く一人前の男になりたくて、男の仕事がしたくてうずうずしている。人生のための準備に飽き飽きしている。人生そのものを始めるときだ、そう思っているのね。ひどい間違いよ、それは! 人生は、棒やボールや、旗や、銃についていくことじゃないの、そんなものがどこかに連れていってくれると思ったら大間違い。人生はこれからやってくるものじゃないのよ。あなたはもう、人生のただなかにいるの」

p.215

 

「同志の絆というのは、死の神秘的解釈に他なりません。殺すことに、死ぬことに、仮面をかぶせて偽装させることですよ、あなたが絆と呼ぶものは(なんの絆? 愛? 違うわね)。この同志の絆にわたしはいかなる共感も感じません。あなたは間違っています」

「排他的で、死に急ぐ、男の構築物の一つ」

p.220 

 

けれどこれらの言葉は彼らには届かない。彼女の言葉によって対話が成り立つ場面としては描かれていない。

カレンが彼らに寄り添おうとする姿勢と、彼らからの腕力に任せる訳ではない、けれど沈黙の深さや丁寧な返答から伝わる「あなたは私たちからひどく遠くにいる」という断絶が繰り返し描かれる。

カレンが感じている責任は、若者へだけでなく、白人住宅街に住んでいない人たちへのものでもある。

 

カレンの言葉は人の生死に関わる戦争や、それを起こそうとする人々に対するものとして、個人的にはとても納得がいくものだ。しかしこの物語において、彼女は白人住宅街に住む側で、彼女が強く訴えかける側は彼女と同じ立場に属する人たちが、虐げてきた側の人たちでもある。

暴力を肯定するのではなく、しかしそれ以外にもやり方があるのだとしても、追い詰められてその行動を選んだ人たちにかける言葉として、カレンの言葉はもとから届く見込みがあるものだったのだろうか。

 

Black Lives Matterをめぐる活動に関して、言葉を奪われた人たちがとった、一部の暴力を伴う主張の方法に対して「正当な(暴力的でない)やり方でなければ、その主張の正当性をいっさい認めない」というのは、その人たちの立場の不均衡さを全く顧みない意見では、というツイートが記憶に残っていて、そんな考えが浮かんでしまった。私の曖昧な知識で、この状況を安易に結びつけていいのかわからないし、過激さにおいて、比べるようなものではないのかもしれない。私が思いつく程度のことを、実際にその立場にあった筆者が考えないはずはなく、そういう断絶のあり方も含めて、この物語は書かれているのかもしれない。くぼたのぞみさんの訳者後書きで簡単には触れてあったけれど、当時のことが書かれた本を読みたいと思った。

 

白人住宅街に現れたファーカイルという人は、あの土地で権利を獲得して生きている側、そうでない側、どちらの立場からも距離をとっている人で、彼とカレンの間においてのみ、対話が成立している、ということに込められた意味も、突き詰めて考えるととてもおもしろい。

 

感想を書くにあたってページをぱらぱらとめくっただけで、引用数がめちゃくちゃ増えそうだったので、再読したら、どのように表現されているか、により重きを置いた読書ができそう。

カルメン・マリア・マチャド『彼女の体とその他の断片』

カルメン・マリア・マチャド『彼女の体とその他の断片』を読んだ。

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「女の体」アンソロジーなのかな?と思うほど、印象ががらりと変わる短編群すべて同じ作者であることに驚く。題材から心の距離を近づけて読みたくなりがちだけど、そんな心構えをしていると身をかわされるようなつかみどころのなさもふんだんにまぶされていて、これはそういうもの、と割り切って読むと逆にピンとくる瞬間があったりする。『母たち』の三作までふむふむと読んでいたら『とりわけ凶悪』でいきなり知らないところに放り出されて途方に暮れたけど、途中からこういう場所もあると景色を眺めることに徹してずんずん進んだ。目がベルの女の子たち、実写化では絶対見たくないけど文字で読む分にはぞぞっとした感覚とともに忘れ難さがある。

わかるわかる、と思って読む物語はしんどいときもあるので、行間からじわりとにじみだすもやがなじみのあるものであるかもしれない、と目を凝らしたり匂いをかいだりするくらいの距離の読書も必要だと感じる。しかしまた読み返したらピンとくる箇所が変わりそうだ。

『母たち』の食べ物(おいしさ問わず)と『本物の女には体がある』のドレスの描写の豊かさが好き。特に後者はめちゃくちゃ皮肉が効いているタイトルからして何度も呟きたくなる。岸本さん訳なのが納得しかない。「女たちが消える」のが不景気の真っ只中に始まった現象であること、「消える」ことを恐れる登場人物の心情描写に生々しさを覚えながら読んだ。

 

訳者後書きで、影響を受けた作家の一人に小川洋子がいるのを知って、読んでいると自分の身体との連続性を感じてちょっと具合が悪くなるところが誰かを思い出すなと思っていたので、かってに納得してしまった。『レジデント』は他の作品に比べてメッセージがストレートすぎる気もするけど、世俗から隔離された館に集められたアーティストという元々好みのモチーフをずらしてゆく物語なので、馴染みのよさを味わっていたらハッとさせられる、というバランスは個人的にはよかった。蛇行する川のほとり』あたりの恩田陸も思い出している(かってに)

 

『八口食べる』は、自分の体を自分が望む姿になるようコントロールしたいという欲望にどこまで従うべきか、その望みは女はかくあるべしとされている旧態依然とした価値観の内面化ではないかという問いかけがある物語だと思うんだけど、この短編に限らず現実では起こり得ない現象が描かれる短編集なので、こうすべきだ、とストレートに警告を発する話ではない。そのせいで、そのおかげで考え込む。

 

なりたい自分になる、その欲望は自分だけのもので、コントロールできることは権利であり、危険性も認識して選択するのであればそれはポジティブな行為である、という強いメッセージも、私にまた難しい。自分の決断であればそれを支持する、と他者の行為を称賛することはできても、翻って自分の話になるとまだどちらにも振り切れずにゆらゆら揺れながら日々を過ごすことしかできていない。

毎日がレジスタンス/松田青子『持続可能な魂の利用』

松田青子『持続可能な魂の利用』

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この作品もディストピアSFといっていいんだろうか?

基本設定めちゃくちゃ現代日本ですが。

 

恒常的な息のしづらさを当たり前と思っていないとこの国ではやっていけないと思いこんでいたけど、でもそれってなんでなんだっけ?だれに気兼ねをしていたんだ?少なくとも、生きづらいんですけど?!とひとり叫ぶことくらい、他人の目を気にする必要なくない?

そんな物語のバリエーションが増えてきつつある時代において、鼓舞される物語の一つとしての『持続可能な魂の利用』

 

日本で女として生きることで、魂の満タンチャージが「82%」くらいに減ってしまった主人公の敬子は、想像上の楽園に残りの「18%」を保険として預け、魂を自由な少女たちの姿で駆け回らせることで、現実をなんとか乗り切っている。××というアイドルグループにはまってからの彼女が楽園に想いを馳せるとき、少女たちは××たちの姿をとるようになった。

 

敬子が生きる現代日本パートの合間に、彼女の魂の少女たち(?)が敬子が生きる現代日本にまつわる「授業」を受け、思い感じたことを率直に話し合うパートがさし挟まれ、物語が進んでいく。

 

敬子にとって「18%」の魂が××の姿かたちをとっていることは、私にとってはタカラジェンヌをそれとして想像することと同じなのかな、と考えると、なんだかわかるような気がした。(自分ごととして置き換えるとあまりにもおこがましいが

 

きっとついていけなかった女の子も中にはいたでしょうが、アイドルとして異形を求められた彼女達は、異形であることを楽しんでいました。

 

(p.170

 

上記の文章は自分が好きな世界の彼女たちにも通じるように感じる。

 

こうあるべき、の縛りが強い世界で、でもその縛りをあくまでごっこ遊びのルールのひとつとして、真剣に、含み笑いでこなしてゆくこと。もちろんルールの程度にもよるのだけれど。

ふたつの世界を比較したとき、舞台に立つ側が女性で占められているという以外は異なる部分も多いけれど、一番大きく異なるのは、プロデュースが主にどういった客層に向けて行われているか、という点だと思う。

それは実際の女性ファンの数ではなく、プロデュースする側がメイン客層をどう認識しているか、それがこの物語のなかでどう捉えられ、描かれているかという話だ。

 

途中で差し挟まれる少女たちがアイドルについてのグループ研究成果を発表するパートでは、彼女たちのアイドルとしての××に対する見解が、そのまま作者の好きな現実のアイドルグループに対する作者の祈りのようにわたしには読めた。

 

しかしその解釈自体には夢を見つつも、モデルとなった現実の彼女らのことをそこまで知らない人間には、作中に描かれているほどの期待を寄せられる存在と認識できず、やっぱり「おじさん」のプロデュースしているアイドルだしなという意識の方が先に立ってしまい、この物語のなかではそういう存在として生きているんだな、という認識をするところまでしか落とし込めなかった。これは好みの問題もあるので、だからつまらないとか、そういう話ではない。

 

現実に「おじさん」がプロデュースした量産型アイドルグループにバリエーションがあり、そのひとつに傷付けられ、あるひとつに救済されるおかしさ、構造のいびつさという設定が現実に存在するインパクトは凄まじいので、この設定ありきで「おじさん」に「少女たち」が見えなくなる(見えなかったらプロデュースできないじゃん)という話が生まれたと思うのだけど、個人的にはモデルが明確すぎること、かつそのモデルが自分の好みとは少し異なるように思えることで、物語の根幹に関わる部分に乗り切れなさを感じたのかもしれない。

 

少女たちに置いてゆかれる側の「おじさん」が少女たちの声を使って、社会に服従するなとメッセージを発信する(というていをとる)滑稽さ、ある意味での醜悪な構造を踏まえつつ、「おじさん」が書いた、「おじさん」が押さえつけられるくらいのかわいい反抗心くらいしか育てる気がないだろう政治的な歌詞を少女たちが歌う過程で、意図していた範疇を超えて彼女らが意思を持ってしまった可能性にかける物語、というのはとてもおもしろい。

 

なぜ前者のような構造をはらんだ存在に惹かれてしまうんだろう?と掘り下げて描かれている物語なので、そういう構造を理解しつつ強烈に惹かれてしまうことがある、という心の動き自体はとても理解がゆく。その上で、わたしはあまり惹かれないかも、と思う。物語自体にのれるのれないは、もはや好みの問題でしかない。

 

 

 

敬子が職場を追われる事件の、気のせいか?と周囲に思わせるようなハラスメント具合のリアルさが、とてもなまなましく想像できるものでげんなりしてしまう。げんなりしつつも、彼女のために怒り、立ち上がる女性の姿に救われる。自分なら同じことをできるかと自問自答しつつ。

 

魂の少女たちが「女子高生」について学ぶ授業では、自分たちが「女子高生」に分類されていた時代、「女子高生」がどんな扱いを受けていたかを知って、言葉を失う場面に「あたりまえ」に慣れ切ってしまった自分がどんな恐ろしい国に生きているかを自覚する。

 

たとえば、わたしたちが今こうしているだけで、道を歩いたりしているだけで、性的な存在とされるなんて、普通に考えて意味が通らない。理解できない。

 

歴史には、戦争や侵略など恐ろしい出来事がちりばめられていて、その恐ろしい出来事には常に性的に搾取される女性の存在が付き物だった。

 

でも、この「女子高生」の時代に、日本では戦争は行われていなかったはずだ。

 

(p.116ー117)

 

あまりにも子どもを産みづらい国であった理由が明らかになってからの怒涛の展開、飛躍にぶっとばされつつ、最終的な「肉体」を持つには人類(日本人に限定?)は未熟すぎた、という結末に、土萠ほたるちゃんがセーラーサターンとして振り下ろす鎌が見えた。

 

生まれる子どもを増やしたいのに、なぜ保育園が足らないんだろう?

女性が働き続けないで子どもを養えるような、余裕のある家庭はこの国にはそこまで多くはないことが見えていないんだろうか?

なんでいまだに女が子どもを見るほうって暗黙の了解があるんだ?

そもそも婚姻関係にないペアが、ペアでない人間が子どもを育てやすくする仕組みを作ったら、子どもを安心して産み育てようと思う世の中に結びつく、という発想はないんだろうか?

 

いまの政府が想定している世帯以外で子どもが生まれること自体が問題、という発想から、こういう現実があることは想像がつく。でもこの物語のなかではその理由について、実はこの国では子どもを増やしてはいけないということになっているけど、そのことを公にできないので回りくどいいやがらせを国家事業として成していた、というオチがついていた。

 

な、納得〜!と思いつつも、日本が地球全体のバランスを鑑みて少子化を目指さねばならないハズレくじを引いた、ということにすると「おじさん」の仕事のうまくなさが「おじさん」のせいではなくなってしまう気もした。でも「おじさん」に退場してもらうにはもうそれくらいの事実(?)が明るみにならないと無理なのだろうか。

 

××たちが政権を握った後、国外に旅立った「ファン」のひとりはおそらく敬子で、そりゃあわたしも「I want more.」を叫べる国で生きられるならそれを選ぶと思いつつも、彼女は「推し」がつくる国で生きることは選ばなかったんだな、という選択がぐさりと刺さった。

 

肉体を失う兆しもなく、少女でもなく「おじさん」も見えなくならない国に生き続けるしかない人間は、せめて「おじさん」を忌み嫌いつつ「おじさん」にいつのまにか同化しないよう生きていきたいと願っている。

 

 

長島有里枝『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトヘ』

『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトヘ』を読んだ。

 

http://www.daifukushorin.com/book.html

 

「女の子写真」は当人らを無視し、他者によって貼られたラベルだった。新たな女性写真家の台頭に脅威を感じた男性らが、おのれの持つ発言力を行使して、使うカメラもコンセプトもそれぞれの個性豊かな写真家を「女の子」というひとつの枠のなかに括って安心するための檻だった。女性が男性社会の写真という職場において、どういう立場に置かれるのかを念頭に置いた上で、個々の作品を語ることと、それはまったく別のこと。

 

それが称賛であっても非難であっても、当事者が自分たちの声で語る場がない状態で、ある言説を繰り返し唱え、通説としてしまうこと、その通説を信じ込んでしまうことについて、もっと慎重になるべきと、女性写真家を語る上で「カメラの軽量化」がキーになると信じ込んでいた自分の単純さに愕然としたいまだからこそ、より強く思う。

 

"「女の子写真家」とは、ある日突然“自分の物語"を誰かに代弁されてしまった人びとである。"(p.210)という一文が強く印象に残っているのは、そうやって自分の声で語ることが許されずにいた、たくさんの人びとに通じる言葉だと感じたから。この本のコンセプトを思えば、安易に普遍化するべきではないかもしれないけど、でもジェンダーによる不均衡な権力構造を踏まえた上での、と考えると、そう言わずにはいられない。

 

言説を強化する巧妙な文章もある一方で、そんなの彼女たちにひっかぶせた欲望を言葉のかたちに固めただけで、写真の評価ではいっさいなくない?!なんで「写真家」への質問に得意料理と今晩のメニュー、究極のメニューが入るんだ?!とあまり「僕ら」目線、「女の子」のなめられようにキレていた。そういうふうに思われると君たちは困るだろうから気をつけてね、って「そう思ってる」のは誰なんだろう?おばけか?

 

一方で、撮る側と撮られる側の不均衡について考えた上でセルフポートレートを選択し、作られたプライベートを「自然なもの」らしく見せることでその意味を考えさせること、自分や手が届く範囲のお気に入り、大好きな友だちを写真に収めることもまた、それまでの価値観を反転する力を持つ「個人的なことは政治的なこと」じゃん!と読みながらずっと浮かんでいた言葉が最後の方で登場してうれしかった。