「Hey, you bastards! I’m still here!」(ちくしょう)あたしはまだ生きてるんだ。伊藤比呂美『道行きや』

Hey, you bastards Im still here!」(ちくしょう)あたしはまだ生きてるんだ。伊藤比呂美『道行きや』

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 カリフォルニアから日本に帰国して、早稲田と熊本を行き来している伊藤さんの、連載エッセイと書き下ろしエッセイをまとめた本。ずっと読んでみたい詩人の一人として頭にあったのに、試し読みでひきこまれたエッセイから手をつけてしまった。

 

 あたしはこう思った、こうした、とぽんと放り出される言葉は気負いがなく読めるようでいて、今なんか物凄いことが書いてあった、と思わず立ち止まってしまう箇所がいくつもある。書いてある内容が難解なわけではないのに、植物から犬猫、人間まで、生き物の生死の取り扱い方にいちいちハッとしてしまう。生き物が老いて、いなくなっていくことを想像するだけで勝手につらくなって、積極的に生活をともにする構成員を増やすのはやめようと、植物やペットに対しても腰が引けている人間なので、伊藤さんからしたら勝手にすればという内容だろうけど、命あるものへのピントの合わせ方、ぼやかし方のグラデーションを読みながら、自分の漠然とした「辛さ」をもう少し細やかに分けて考える必要があるなと、度々思っては実行に移せていない考えが再度浮かんだ。

 

 伊藤さん自身の耳が聞こえづらくなったことにより、夫が補聴器を使いたがらなかった記憶を思い出す箇所が特に印象に残っている。

 

そのhumiliationgな感じとはどんな感じだっけ。思い出してみた。

 恥ずかしいというのとは違う。恥ずかしいわけではないのだ。だって、年を取って、髪が白くなり、目が見えにくくなり、膝が痛み、月経がなくなり、耳の聞こえが悪くなる。全て何も恥ずかしいことではないのだ。

 ただ人には、前を向いて、頭を上げ、立ち上がって歩き出そうとする特性がある。それが意味もなく否定され、押しつぶされる感じた。それで頭を上げられず、前を向けず、立ち上がれないような、もどかしい感じでもある。(「耳の聞こえ」p.33

 

 脱走した犬を追いかける「鰻と犬」、「山笑う」を発見した「河原の九郎」、市民権獲得を考える「ひつじ・はるかな・かたち」、嫉妬や不在を感じ取る犬を観察する「犬の幸せ」

 

Hey, you bastards Im still here!」に、全然文脈は違うのだけど「のたれ死にしたって、わたくしの人生ですわ」(木原敏江『ユンター・ムアリー: 摩利と新吾欧州秘話』)をなぜだか思い出した。

 

 エッセイの中で学生時代に受講していた「文学とジェンダー」という講義と再会し(教員は変わるけれど科目名は変更がないのだと思う)とても懐かしい気持ちになったけど、”川の水みたいに、次の瞬間いなくなる”学生の立場だったため、何かに感銘を受けた感情の記憶だけ残って、何かの内容を綺麗さっぱり忘れてしまっている。リアクションペーパー