「私たちは宇宙に存在する孤独の総量をどんどん増やしていくだけなんじゃないのか」/キム・チョヨプ『わたしたちが光の速さで進めないなら』

「私たちは宇宙に存在する孤独の総量をどんどん増やしていくだけなんじゃないのか」/キム・チョヨプ『わたしたちが光の速さで進めないなら』

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 SFを読むときに求めているものについて考える。
 その少し未来の物語が、過去の誰かが思い描いた夢に支えられていること。夢の内訳。叶ったこと、叶わないこと。技術の発展だけではカバーしきれないもの。人間の欲求と愚かしさ。

 少し角度を変えて考える。

 科学技術が発展した少し先の未来はどんなものか。社会はどう変わるのか、「豊か」になるのか。そうだとしたら、その「豊かさ」を受け取れるのはどういう人か、「豊かさ」の有無は人々の生き方にどう関わってくるのか。「豊かさ」にはどんなバリエーションがあるのか。

 理想だけじゃ物足りなくて、現実だけじゃしょっぱすぎる。
キム・チョヨプ『わたしたちが光の速さで進めないなら』は、そんな両方の要素のバランスが心地よい作品が多くおさめられている短編集だった。

 

 表題作、『わたしたちが光の速さで進めないなら』は「遠い星へ出航する船を宇宙ステーションで待ち続ける老人」という、人によっては懐かしさでそわそわするような設定を軸に、主にその老人の語りに耳を傾ける、終盤まで正体が明かされない若者の視点で進行する物語だ。

 どこか馴染みのあるような設定。老人が聞き手の若者に語る、自分が研究者として活躍していた時代の話は、若者の視点では「昔」話でも、読者の私たちの時間軸からは、まだ見ぬ未来の話だ。彼女が生き生きと語る、人類が宇宙に見出す普遍的な夢の形に、その夢を手中にしたいという情熱に惹きつけられ、読者である私は、物語の時間軸の過去から照らされるときすでに「今」として固定されている未来が、彼女の望むようなものであるよう願ってしまう。
 同時に、人類が宇宙へ踏み出すという夢のあり方自体を、繰り返し語られてきた普遍的な願いととらえ、そこにかつて読んだことのあるSF作品や、現実の宇宙への展望を見出し、郷愁を覚える。
 
 その一方で気にかかるのは、過去の時間に一人取り残されたように生きる老人を、そこに取り残したものはなんなのか、ということ。老人ーーアンナによって語られる、彼女自身の選択と、時代が要請したもの、そして少数の個人を置き去りにする、政府が決定した政策のあり方に、私たちは「懐かしい」では片付けられない、現実の延長線上にある未来をそこに見出す。

 宇宙を旅するという人類の夢の実現のためにも、先立つものは必要不可欠という事実をこの物語は淡々と示してもいる。より経済的な手段が発見されることで、これまでの研究は古くて後進的なものになる。政府の「経済面」での選択は、アンナの研究予算を大幅にカットするだけでなく、彼女が家族の住む「遠い星」へ行く手段をも奪う。

 ある目的を遂げるための新たな技術が見出され、人類が大きく躍進するとき、時代遅れの技術は、その研究者は不要となってしまうのだろうか。
 時代に取り残された技術とともに、宇宙ステーションに取り残されたアンナ。夫と子どもがいる星へ出航する船を長い間待ち続ける、待つ、という行為にかってに切ないものを見出してしまいそうになるけれど、自分自身の研究成果を身を以て証明し続けることにすべてを注ぐ彼女の生き方は、もっと激しい「待つ」の能動性を訴えかけるものでもあるように感じる。

でも、わたしたちが光の速さで進めないのなら、同じ宇宙にいるということにいったい何の意味があるだろう?
p.156

 アンナの最後の選択は、それを許してしまった「若者」の脇の甘さは、物語としてある意味での予定調和だとは思うのだけど、同時になりふり構わない過激さも有していて、リアリティと飛躍のバランスに胸がすく。個人では動かしがたい状況が存在することをきちんと描きつつも、その状況下で生きる人間の出来うる限りの選択が描かれている物語に希望を見出す。

 若者から老人の語りで進む物語という形式自体が、すでにオールドスタイルでは?という見方もあるかなと思いつつ、作品に漂う懐かしさと物語の語り方に齟齬がないように感じること、また語り手が女性の研究者である、というところに既存の性役割分担への意識的な反転を見出し、個人的には好意的に解釈していた。気難し屋で孤独な老人(女性)が生き生きと描かれる作品に勇気付けられる、というのもある。

 

以下、他の短編についても簡単に記します。

 

「巡礼者たちはなぜ帰らない」
 収録1作目だったので「帰らない」理由がホラー寄りだったらどうしようと怯えながら読んだところ、「怖さ」がないとは言わないけど良い意味で裏切られた作品。
 村で生きる主人公の視点は読者の私たちとは異なる、その差異を読者に気づかせないように物語を進めるには、小説という方法が一番適しているのかもしれない。文字情報のみを表現手段とする小説の、作者が作品の情報をコントロールできる範囲について改めて考えた。
「○○(巡礼地)に残る理由は、たった一人で十分だったのよ」という言葉。主人公のデイジーが物語終盤に語る理想は青臭く、一人称の語りによる盛り上がりもあるのかもしれないけれど、設定の妙もあって、その理想の世界を信じてみたくなる。

 

スペクトラム
 そういうふうに生まれついたから、と種の連続性を見出すのではなく、個人の選択として、他者と一緒に生きようとする、個体のあり方の描き方に惹かれる物語。

 

「共生仮説」
 私たちの利他性の育まれ方についての話。忘れている懐かしい景色があるのかもしれない、という想像は、多くの人にひどく懐かしく慕わしい想いを抱かせる。

 

「感情の物性」

「もちろん、そうでしょうね。あなたはこのなかで生きたことがないから。だけどわたしはね、自分の憂鬱を手で撫でたり、手のひらにのせておくことができたらと思うの。それをひと口つまんで味わったり、ある硬さをもって触れられるようなものであってほしいの」p.188

インスタ映え」というフレーズが出てきたり、他の短編よりぐっと身近な、「未来」というには数年先、いやどこかの国ですでに発生しているような物語に思えた。自分の感情の拠り所のなさにうんざりして、上記のような台詞に近い感情を抱いた人は少なくないのではないだろうか。

 

「わたしのスペースヒーローについて」
 それまでの物語で膨らませた「宇宙」へ人類が到達するという「偉大」な目標への夢を、ある意味破壊してくれる、本短編集のために書き下ろされた作品ということだけれど、トリを飾るのにこれ以上ない作品では? 宇宙に到達することは手段であって目的ではない、ということ。当たり前かもしれないけれど、改めて示されるとハッとするし、しかし他の星から星への移動が描かれている作品も、よくよく考えたら同様の趣旨が当たり前に盛り込まれているんだなと気づいた。その先で何を成したいかということがあっての「遠くの宇宙空間へ到達する」という行為。そしてその「人類の共通の夢」を共有しなくてもいいという選択が鮮やかに描かれるということ。海へ飛び込む軌跡を見たいと思ってしまう。

 主人公のおばさんが宇宙飛行士に選抜される過程での性別・人種のクオータ制導入に対する非難や、様々な人の期待を背負った彼女がその期待を裏切った理由についての推察、おばさんを「ヒーロー」と慕う主人公のおばさんへの思いの変化、どの短編にも言えることだけれど「今」の要素を盛り込んだSFかつ、その要素を物語としてうまく生かした作品で、今こういう作品が読めることがとても嬉しい。

 

「館内紛失」
 この物語で描かれる「図書館」のイメージが面白くて、この設定だけで連作短編集ができそうだと思った。インデックス=請求記号分類のようなものと理解。「マインド」というデータの認識についての議論含めて、この設定を理解した読者向けに別主人公で短編を書いてほしい。
 と思ったのも、他の短編集の着地点を思えばこの物語もこういうところに落ち着くのはわかるのだけど、母と娘の関係性が描かれた作品という意味では予定調和すぎた感もあったので、他の設定主人公の話が読んでみたいと思ったから。「紙の図書」がキーアイテムとして登場するのもおもしろい要素なので、連作を安易に望むのは違うかもしれないけれど。数年後に読んだら、もしかすると違った印象を持つかもしれない。
 また、作中の「ジミンのお母さん」という言葉に(訳注:韓国では子を持つ親を、本人の名前ではなく○○〔子の名前〕のお母さん、またはお父さんと呼ぶことが多い)という注がついていて、これは日本語版で注が必要な箇所と訳者の方が判断されて…?それは日本の読者には通じないという前提で…?とショックを受けた。
 このショックの内訳は「日本では誰かの親になったとしても、個人を個人名で呼ぶという個人を尊重した習慣が根付いている国と思われているのかも」「あるいは大いなる皮肉か」「韓国はそういう理由の呼ばれ方にネガティブな意味がないのか」などです。