メーサーロシュ・マールタ監督特集『ふたりの女、ひとつの宿命』『マリとユリ』

メーサーロシュ・マールタ監督特集『ふたりの女、ひとつの宿命』『マリとユリ』

 


ふたりの女、ひとつの宿命』だけ見逃す可能性が高く、しかし先の3本を見終えた段階でやはりどうしても見たい、と無理やりねじ込みスタンプラリー(架空)完了しました。結果として5本すべて鑑賞できてとてもよかった。

 


女と女のさまざまな関係を巡る作品の連続上映として2作の関連性を考えた際、「連帯」や「シスターフッド」等のフレーズがまったく頭をよぎらないわけではないものの、見終わった後、その言葉と一緒に誰かにすすめることをためらうような、不穏な要素の詰まった2作だった。(「連帯」や「シスターフッド」を描いた作品が常に不穏な要素とは無縁と考えているわけではない)

 


『ナイン・マンス』のユリは、彼女を従わせようとするものと独りで戦っているが、『マリとユリ』のユリにはマリがおり、世代差のある女と女の親密な関係性を関連要素として掲げれば『アダプション/ある母と娘の記録』と『マリとユリ』2作品を線で結びたくもなる。

(ここでは「親密な」と書いたけれど、同性間の強い感情、「惹かれ」に類するものを指して「名づけられない」等の表現を連呼することで、両者の関係をわざと誤認する、ヘテロセクシズムに立脚した考え方に絡めとられる可能性があること、またパンフレットの解説でも触れられている通り、法的な関係を結んだ男女の関係性に比べて同性間の関係性がもろいものとして扱われがちな背景も理解しつつ、それぞれの異性パートナーへの強い「惹かれ」が描かれている作品で、どの程度まで分け入って同性間のそれを強く読み取っていいか、私の読解力と表現力が追い付いていないところがある)

また、『アダプション/ある母と娘の記録』と『ふたりの女、ひとつの宿命』は「血のつながらない子どもを引きとり、養子にする」という要素を拾い出せば線で結べるかもしれないが、カタとスィルヴィアが子を持ちたいと考える理由や選択した手段はそれぞれ大きく異なる。一見似た要素を繰り返し用いながら、それぞれの登場人物はそれぞれの事情に基づき彼女らの人生を歩んでいく、あるテーマが繰り返し描かれることや、それを目撃する意義を感じる。

 


メーサーロシュ・マールタ監督の作品は、これからどうなってしまうんだろうと思わせるような場面で物語を終えることによって、描かれた人物たちの人生がそのあとも続いていくことを観客に自然と想像させるものが多い。

もちろんそういったタイプの作品は数多く存在するが、私自身が「めでたしめでたし」よりこちらに強く惹かれる理由として、観客への物語のゆだね方や、AかもしれないしBかもしれない、という選択肢が開示されている状況の描き方に誠実さを感じるタイプだから、ということがあげられる(「めでたしめでたし」と言い切るタイプの誠実さ、責任のとり方もある)。

 


5作品、それぞれの困難を生きている女性たち(ときに男性たちも)のさまざまなケースを物語ごと自分のなかに引き込むことによって、自分が生きられる以外の人生をより多く知りたいし考えたい。

 

 

 

ふたりの女、ひとつの宿命』

ある日、不妊に悩む裕福な女ともだちから、生活や夢のための資金提供と引き換えに代理出産(子どもを引き渡す前提での彼女の夫との性交および妊娠・出産)を持ちかけられたら…?という、『ナイン・マンス』鑑賞後、主人公のユリを演じるモノリ・リリのファンになった人間が見ると(男の思うままにならない女が今度は友人の人生まで振り回し始めたぞ?!)とはらはらしてしまう作品。

 


イザベル・ユペール演じるユダヤ人のイレーンが主人公の物語として、イレーンとスィルヴィアの身分、置かれている環境を対比して、また客観的にシチュエーションを考えた際にスィルヴィアが持ち掛けた取り引きの不均衡さとして、通常はイレーンやスィルヴィアの夫・アーコシュ側こそが被害者であるという見方がまっとうであり、スィルヴィアの後半の行動に嫌悪感をもよおす観客も少なくはないとは思うのだけれど、この物語を行方を追い続けているなかで(加害者であると同時に、このように苦しむスィルヴィアもまた被害者ではないか?)という考えが浮かぶ人もまた少数派とは言えないのではないだろうか。

ではなにがスィルヴィアを苦しめるのか、と想像した際、表面上はイレーンと自分の夫が関係を持つこと(2者間の愛情の発覚以前も)、自分自身が妊娠・出産可能な身体ではないことを妊娠・出産可能なイレーンのそばにいることによって思い知らされ続けること、のように見えるが、スィルヴィアと父との遺言状に関するやり取りからは、この父の血を引く子を自らが生まねばならない、「財産の相続」という観点からの彼女へのプレッシャーもまた見えてくる。スィルヴィアの父は彼女を深く愛しているように見えるし実際その事実は確かなものだろうけれど、その愛には「家を存続させるための子孫繁栄」の成立が必要不可欠なのではないだろうか。「(娘が子を産むことを)確信している」と言い切る父の言葉は、子を持ちたいはずの娘に不穏な思いを抱かせたくない、という親の思いやりとも、自分の愛する娘が子を持てないような健康状態であるはずがない、という何の根拠もない思い込みともとれ、そこにはパターナリズムが透けて見える。スィルヴィアがその父からの「期待」を受けてどう行動したかを考えれば、父の遺言状によるプレッシャーかもたらした「効果」は彼女の人生にとって非常に大きい影をもたらすものだっただろう。(スィルヴィアの夫は、子の有無が彼女への愛情に影響するわけがない、と一笑に伏してはいたが、はたして)

スィルヴィアが、夫・アーコシュから彼の同級生へ「義姉」と紹介されるエピソードは、彼女に大きな動揺を与える一要因であったことに違いはないけれど、それ以前、イレーンの出産時期が近づくにつれ様子がおかしくなっていく彼女の不安の発生源は、単に夫がイレーンとの距離を縮めている、という事実を明確に感じ取っていることだけに由来するものではないようにも見える。全裸でイレーンの部屋の前に横わりあえぐ場面の痛々しさ。

また、今にも子が産まれそうな状態でいきんでいるイレーンと同時刻に、自らも子を腹から産み出すかの如く別室であえぐ、すべてのものへの憤りがごっちゃになって切り分けかねるという様子のスィルヴィアの、こんなの無理よ!という叫びは、自分がまいた種では?と彼女に追い打ちをかけることを躊躇させる悲痛さがあった。自ら懇願し、達成されたことであってもこの状況が耐えがたいと感じてしまう、ひとりの妊娠可能な身体を持ち得る可能性があった人のある種グロテスクな思いを、私は理解できなくはないものとして想像してしまった。(産まれる子どもとの同化では?という考察を読んで、そうした捉え方もあるのかとはっとした)

 


スィルヴィアの代理出産の持ち掛けがなければ、イレーンとの友情は続いていたのだろうか?というどうしようもない問いかけと同時に、彼女らの立場の違い、この時代、序盤から響いていた軍靴の足音を改めて思い返す。二人が顔を合わせていがみ合うようなわかりやすい光景は記憶からすっぽり抜け落ちているのなければ一場面もない、あるいはほとんどなかったはず。彼女らの対立は常にアーコシュを介してのもので、二人が同じ画面に映る場面で印象に残っているのは、並んで監賞したり、スィルヴィアのベッドに並んで横たわり歓談する姿、ピアノを弾くイレーンの歌の歌詞に自らの先行きを重ねてか涙をこぼすスィルヴィアや、二人で身づくろいをし、そろいの格好で皆の前に笑って登場する(ここはかなりピリピリした空気を感じるが…)、雪景色の中をはしゃいでそりに乗る親密な姿だ。そこに常にお互いへの好意ばかりがあったわけではないことは確かだろうけれど、彼女らそれぞれの選択を尊重しつつ、彼女らを別ったものは彼女らの意思だけなのか、とも考える。妊娠可能性を常に問われる人間の人生に、当人が望むとも大きく横たわる存在。産む・産まない・産めない、について、その可能性を持つ人たちが他者から問われなくてよくなる日は来るのだろうか。時代背景や社会規範、立場や身分等の複合要素を加味して読み解く必要がある作品ではあるけれど、個人的に一番気になるテーマを優先して考えてしまった。

 


他の4 作品に登場する女性たちはいずれも、そこまで裕福とはいえずとも自らの労働で賃金を稼ぎ、生活をするタイプがほとんどだったため、他作品にも登場し、特に『ナイン・マンス』で手に職を持ち自らの人生を切りひらく印象が強かったモノリ・リリが、相続したお金で女ともだちの頬を叩くような(イメージ)役を演じるのか、という驚きがあったけれど、見ているうちに、このなんとしても自分の意思を押し通し行動しようとする強情さは彼女の演じる役の持つ特性としてふさわしい、と思うようになった。

と、いうほどモノリ・リリという俳優のことを知っているわけではないのだが、変な肩入れの仕方をしてしまう魅力が彼女にあることは、映画を見た方にはわかると思う。

 


そんなモノリ・リリへの思い入れにより、スィルヴィアの視点から物語を追ってしまったが、一見激しい感情表現に乏しいように思えて、迷いながらも淡々と自分の決めた道を歩む強情な人物像という他作品との共通点において、同監督の映画の主人公にイレーンのようなタイプが据えられたのも合点がいく。(もしかしたらモノリ・リリは主人公に一番近い役どころに据えた方が輝くのか?という考えが頭を掠めた)

本作のメインビジュアルのひとつにもなっている、花がいけられた花瓶の前に立つイレーンの姿は、スィルヴィアの夫・アーコシュから受け取った花を切り落とす場面として描かれており、数々の場面の中で絵として切り取られるのも納得の、印象的な場面だった。

そんな彼女はアーコシュと引き裂かれることを拒み、国内に留まる選択を取ったがために、最終的に矢十字党に連行されていく。

 


あらすじを読み、いったいどうやってイレーンはスィルヴィアの無茶な相談に頷くのだろうと思っていたけれど、断り続ける描写が長く続くわりに、決定的な瞬間は描かれずに人の感情が移り変わり、重要な決断がなされている、という描き方をする監督であることは『ナイン・マンス』や他作品でも予習済みであったことに加え、むしろそのような大きな決断をする人間の心の動きを言葉や行動でわかりやすく描こうとしないこと自体に好感を持った。

 


映像としては、1930年代のハンガリーの富裕層の生活がメインに描かれるため、スィルヴィアの屋敷の内装や調度品、スィルヴィアやイレーンのドレスアップした姿等、画面が非常に華やかで、しかし時代背景もあってか、影のとり方により光が当たった部分がよりくっきり印象づくような、明暗を強く意識する場面が多かったように思う。

銀のケーキスタンドに盛られた焼菓子の数々が目に楽しい冒頭の場面や、雪山のホテルまで馬の引くそりで向かう、真っ白のコートを身にまとったスィルヴィアとイレーン、それぞれの姿もまた目に焼き付いている。父の葬式後のスィルヴィアとアーコシュがほぼ裸の状態で転がるりんごと共に床に横たわっているカットも印象的だった。

 

 

 

『マリとユリ』

工場の寮の管理者であるマリと、工場で働きながら寮のルールを逸脱した行動をとるユリ。夫のもとに置いておけない子を連れて寮で暮らそうとするユリを自分の部屋にルームメイトとして引き入れたマリは、次第にお互いの夫婦関係について語り合い、困難を共有し、それぞれの人生に深く立ち入るようになる。ふたりの女性と、彼女の夫たちそれぞれの決断とは。

直前に見た『ふたりの女、ひとつの宿命』が、人間の生死が関わってくるという意味で救いようがない重さだったため、だからといって本作が「明るい」わけではない、ないのだけれど、世代差も価値観の隔たりもある二人の女性が、お互いの生き方に干渉しあい、理解のできない部分は突き放す、しかしその理解できなさに憧憬の念を抱くいっときもある、といった描かれ方が、個人的に、ひとつの理想の関係を描いたものにも思え、折にふれてこの光景を思い出すだろうと感じる瞬間がいくつもあった。ほかの4作だったら表情を丹念に映すだけにとどめるだろうな、と思う場面で、比較的登場人物を饒舌にさせる傾向も感じ取り、総合的な見やすさとしては『マリとユリ』が一番おすすめしやすい気がする。

そして見た順番のせいで『ナイン・マンス』『ふたりの女、ひとつの宿命』のヤーノシュとユリが転生してまた問題のある夫婦をやっているけど今度こそうまくいくのか?!とはらはらしつつも面白くなってしまう瞬間もあった。

『ナイン・マンス』のヤーノシュは情状酌量の余地がほぼない、マチズモの権化だったため(あれも愛すべきダメ男の範囲と判断する人もいるかもしれないが)

『マリとユリ』のヤーノシュは、酒が悪さしていなければしらふのときはかなりかわいげがある男性として描かれており、ユリが何度もほだされたのもわかる絶妙なさじ加減だった。

彼が登場する作品を3作見て、どの違ったタイプもそういう人だろうな、思わせる演技に、モノリ・リリとはまた違う、役者としての魅力を実感した。

また、こちらのユリとヤーノシュは力関係がだいぶ異なり、それが現れている場面の一つがマリと同室の寮の部屋で、ユリの方から積極的に性交を求めるシーンだ。ヤーノシュの方が、この場所ではやめておいたほうが?とその欲求を言葉で一旦落ち着かせようとする(始まる前の夫婦の茶番なのかもしれないけれど、そこにもまた彼の落ち着きとかわいげが見える)という光景がとても印象的だった。

 


そんなユリ・ヤーノシュ夫婦のことも非常に気になりつつ、本作を見ていると、酒を飲みかわして夫の愚痴をとことん聞くよとマリに言いたくなる。マリの夫は、彼女が寮の管理者を勤めるために離れて暮らすことをよく思っておらず、いつ家に戻るかを帰宅するたびにそれが当然だという口ぶりで問いただす上、基本的に、おまえは妻として母としての務めを果たしていないという態度をとる。

 


しかしこんな夫であってもなんとか関係性をよりよいものにしたいと悩むマリは、壁一枚を挟んだユリとヤーノシュのセックスに動揺し、のちに言い訳と共にマリの性生活にまで口を挟むユリに怒りながらも、ユリの姿をなぞるように、訪ねてくる夫の言葉をキスで遮りセックスに誘う。けれど夫はことを終えた後、すぐにベッドの上で壁側を向いて寝る姿勢をとり、マリは床の上にスリップ一枚で転がったまま、虚空を見つめる。この場面がなんというか(体験したことはないが)めちゃくちゃに「リアル」で、本映画におけるたくさんの「マリ?今夜空いてる?飲みに行こ??」場面の内のひとつだった。

 


マリは工事の寮の管理者としての責任も果たしつつ、ルールはルールでありそこで生きている人に合わせて柔軟に対応すべきだ、この場所で暮らす人々に住み心地の良い場所を提供すべきという考えを持つ、ひとつの部署のトップ(課長程度を想定)としてかなり信頼に足る人物として描かれており、もっとルールを厳しくすべき、甘すぎると彼女に苦言を呈する同僚とも信念をもってやり合う。正直同性が多い職場で働く人間から見てもかなり魅力的な人物で、だからこそ彼女の夫の態度は彼女にとって望ましくなく、腹立たしいものとして目に映る。

けれど夫につき従うような生き方はできない、そういう女ではない、と吐露するマリと、懇親会に夫が来ない事実を嘆いて泥酔するマリは同人物で、相いれない相手を好きになってしまい、互いの主張を受け入れさせようと(精神的に)取っ組み合いのけんかをするという意味で『ナイン・マン』のユリとヤーノシュを思い出したりもした。オムレツのせ鉄フライパン窓の外ぶん投げ騒動からのマリの、口元を押さえて自分のしでかしたことに呆然としている表情からも、彼女がいかにこれまで夫とうまくやろうと努力し、穏やかに接してきたか人かが伝わって、見ていてやるせなくなる一場面だった。(マリ?飲みに行く?)

 


そんなマリとユリが夫との関係についてじっくり言葉を交わす場面や、突然マリが浴びているシャワーにユリが乱入してくる場面は、この映画において非常に貴重な、見ていて安らぎをもたらす場面でもあるのだけれど、そんな女と女の関わり合いはもちろん、この映画ではユリの夫・ヤーノシュとマリ、マリの夫とユリ、それぞれが話している場面もまた、とても興味深い存在感を放っている。

 


最後の場面以外の、マリと話しているヤーノシュは、基本的にきちんと理性を持ち、ユーモアもあるチャーミングな男性として描かれており、特にユリとヤーノシュの家を訪ねたマリが、ユリの帰宅を待つ間、ヤーノシュとパーリンカを飲みながら(ヤーノシュは酒以外の飲み物を飲みつつ)語り合い、ヤーノシュが詩の朝読をユリに聞かせる様子は、友人の夫と妻の友人という関係性を飛び越えた、彼女と彼の間にもまた友情ははぐくまれつつあるのでは?と思わせる、とても心に残る一場面だった。

(一瞬恋愛の「惹かれ」に近い妙な空気が発生し出したことにひやりとしたけれど、それをお互いに察してユリの帰宅を待たずに帰り支度をするマリ、彼女をぎこちなく促し見送るヤーノシュという流れも、お互いの関係を壊さないための温かみのあるやりとりとしてとてもよかった)

そんなヤーノシュとマリ、二人が築いてきた確かな関係性があったからこそ、アルコール依存症治療のための施設でのヤーノシュのマリへの態度がこれまでの彼のチャーミングさを帳消しにするようなひどいものであったことが、ただただ痛ましくてならなかった。

これを最後の場面にもってくることで、マリ自身が、これまでヤーノシュがユリにどのような態度をとってきたかをきちんと理解していないまま二人の復縁を促していたのかもしれない、と思い知らされるきっかけとしても作用するであろうことが、映画としてうまいし、きつい。ユリの娘の嘘つき!の連呼もまた胸に突き刺さる。

ヤーノシュがアルコール依存症の診断書を自ら持参してユリに施設への入所を決断したことを告白する場面では、『ナイン・マンス』や他の作品のメーサーロシュ・マールタ監督作品の中で描かれたものとはまったく異なる男性像が描かれようとしているのかもしれない、ととても驚き、同時に嬉しさを感じたけれど、そんなにうまくことは運びはしない、一筋縄ではいかない展開が同監督作品のおもしろさでもあり、また見ていて苦しいところでもあると思う。

施設でのヤーノシュのユリへの暴言は、明らかにマチズモを手放せていない男性の言葉で、それとアルコール依存症との結びつきは必ずしもあるわけではないと思うのだけれど、治療の苦しみが引き金となって他者と対峙する余裕をまったく持てなくなったときに、その人の一番弱い部分を目の前の甘えられる人にさらしてしまう、ということは起こり得るのだろうな、と想像した。(依存症について深い知識があるわけではない立場から憶測でものを言うことは難しいため、この映画の中での描写に限っての想像です)

ヤーノシュの「俺は一度も愛されていない」がマリの夫への考えと呼応するとき、この物語のなかではヤーノシュという人物もまた救いようのない、突き放した存在としては描かれていないようにも見える。自らの弱さを認め、それを開示する強さを掴んだように思えた人間もまた、その強さを維持することは難しく、開示の方法を誤ることもある。誤りを目撃させられた人間がいかにその人と対峙し続けるか、それをやりたいと思うかはまた別だけれど。

 


ヤーノシュとマリのやり取りとは対照的な、マリの夫とユリの会話では、ユリがマリの夫にモンゴルに行くときのアドバイスをあげる!と軽口を叩くときの相手を確実に小馬鹿にした伏し目がちの表情がとても魅力的だった。