メーサーロシュ・マールタ監督特集『アダプション/ある母と娘の記録』『ナイン・マンス』

メーサーロシュ・マールタ監督特集『アダプション/ある母と娘の記録』『ナイン・マンス』を見た。

 

2作とも、婚姻関係にある男女のみが子どもを持つべきと考えている男たちと、子どもを持つうえで婚姻関係は必須ではないと考えている女たちのすれ違いの描写が、物語の主軸であったり通奏低音として流れるような作品だった。恋愛関係にある男女間の不均衡さを生々しく切り取った映像に監督の社会に向ける眼差しや強い意志を感じると共に、養育する子どもとの血縁関係は必ずしも最重要視するものではないという価値観も個人的にはとても望ましい要素と捉えている。

1970年代のハンガリーの社会の様子について詳しい知識はないものの、思い通りにならないタフな女たちの言動に時に嘆き、時に激しく憤る男たちの姿は、50年以上の時間も土地も大きく隔てた国・社会に生きる自分にとって、苦々しくもどこか馴染みのある光景として映る。けれど同時に、そんな男たちと対峙し、悩みを抱えつつも自らの人生を切り拓いていく女たちの姿は、いまだ彼女らと近しい課題を抱え、しかし彼女らほどには自分の意思を貫き通すことが様々な条件から難しい立場から見つめたとき、むしろある意味で新鮮で眩しく、好ましいものとして目に焼きついた。

その先にある未達成の社会を提示するような作品に蒙を啓かれる体験も必要だけれど、このような困難がここにある、と描く作品もまだまだ必要な段階に私たちは生きている。

以下はそれぞれの作品の感想。

 


『アダプション/ある母と娘の記録』

子どもを持ちたいけれど、不倫相手からの同意が取れないカタと、親との関係が決裂し、寄宿学校で暮らすアンナ。母と娘ほどの年齢差があり、血縁関係にない女性二人の距離感。カタはアンナに部屋を提供し、彼女の結婚のために奔走するけれど、一方でアンナがカタの心の支えにもなっており、互いが互いを必要とする関係を築いていることがわかる。

レストランでの、男たちのあからさまに性的なニュアンスを含む視線や誘いをぴしゃりと跳ね除け、身を寄せ合って楽しげに囁きあい煙草を吸う、自分たちだけの安全な世界を形成しているような仲睦まじい2人の姿は、映画内で一二を争う素晴らしい場面。かといって継続した関係を持つかは不明、いっときだけ助け合い、その後はそれぞれの道を行く二人のなんともとれるようでとれない、「疑似母子」のたとえを拒むような不思議な結びつき。好き合う男の妻として結婚し暮らすことを望むアンナが、カタとの養子縁組を頑なに拒み、法的に約束された関係を締結しないからこそ得られた関係だったとも思う。必要な時期だけ強く結びつき、今は縁遠くなった誰かとの記憶もなかったことにしなくてもいい、そんな考えも浮かんだ。

アンナが突然壁に向かって笑い出した理由や、そんな彼女の頬をカタが突然叩いた理由も明示はされず、観客は彼女らの様子から推し量るしかない。基本的にその時々のお互いへの心情を二人は言葉でほとんど語らず、レストランでの様子や、カタの頬を伝う涙をぬぐうアンナの手つき、そういった身体的接触が、二人の心理的親密さを私たちに想像させる。

役名のある人びとだけでなく、寄宿学校に住む子どもたちや工場で働く人びとの表情を時間をかけて映し出す場面が数回あり、カメラに視線を合わせたり外したりと思い思いの表情で映り込む、ひとりひとりの眼差しの強さにも目を奪われた。いずれも映画の中で詳細には描かれない人びとの来し方行く先に思いを馳せてしまうような忘れがたい光景だった。


寄宿学校と字幕には出ていたけれど、子どもたちの様子や描かれ方を見るに、なんらかの理由で親を失った、あるいは親と離れて暮らす必要がある子どもたちの児童養護施設に近い印象を受ける。

ハンガリーではこんな昔から独り身でも養子縁組は可能なのだな、ということに驚き改めて調べたところ、2020年に同性カップルおよび独身者の養子縁組を禁止する法案が可決していた。独身者の養子縁組が認められるケースもあるようだが、いずれにせよ、時代と逆行した人権後退の憲法改悪には違いない。日本に生きる人間としては自国を第一に省みるべき立場であり、他国の状況に驚くことすら憚られるような有様であることは言うまでもないのだけど。

 


ハンガリー議会、同性カップルの養子縁組を禁止する法案を可決

https://www.bbc.com/japanese/55327967

 

最後のパーティーでのアンナのパートナーとの行き違いの様子や、養子に迎えた小さな子を腕に抱えて家路を急いでバスへ駆け寄るカタの足取りに、隣でハンドルを握る運転手の様子を助手席から息をひそめて見つめているかのような、他人事ではない感覚と危なっかしさを覚えた。映画の余韻としては全てがうまく収まりハッピーエンド、という結末ではない方が好みではあるけれと、この映画においては彼女らのこれからを案じずにはいられない。

これは絶対に書いておきたいけど、待ち合わせをすっぽかした挙句嘘をついたり逆切れして家族に会わせたり、そうかと思えば家まで追っかけてきてこのタイミングかよ?というタイミングで求めてくるヨーシュカ(カタの不倫相手)最悪だったな!

 

 

 

『ナイン・マンス』

同日に続けて見たため、1975年『アダプション/ある母と娘の記録』は白黒、翌年発表のこちらはカラーという映像の切り替わりに驚いた。

 

工場で働きながら通信で大学に通う、将来のビジョンがはっきりと手中にあるような自立したユリの、パートナー男性・ヤーノシュへの序盤からのきっぱりとした態度が非常に印象的。出会ってほとんど日を置かずに彼女を口説き落とそうとする男を断り続ける彼女がなぜ絆されてしまったのか、ユリがヤーノシュを好きだと思うにいたるタイミングがわかるようでわからず、急速に距離が縮まる二人の様子に(これが恋愛巧者のやり口か?)と呆然としてしまった。

もう初めからハラッサーの気配しかしない、絶対にやめたほうがいい男相手になぜ、という思いは上映中ずっと付きまとっていたけれど、自分の意思を伝えつつ相手に無理強いはしない、相手の意思も確認するけれど無茶な願いは絶対に聞き入れない、強固な意志に裏打ちされたスリリングな駆け引きこそが人間関係を形成するうえでの大前提と捉えているのだとしたら、初めからあまりにも「違う」人間同士のチャレンジングな関係にも突き進んでいけるのかもしれない。

 

けれどそう考えているのはユリの側ばかり、言葉で知り合うよりもフィジカルな接触のほうが優先されてしまったからこそ、後からであっても話し合って、お互いをゆっくり知りあうべきだと考えている彼女と、それは必要ない行為と捉えている男とのずれは、予感だけではない、現実のものとして明らかになっていく。ヤーノシュにとって自分の意思を伝えるということは「合意」を取る前の相手への意思確認手段ではなく、ただそれを実行しろ、俺に従え、という要求でしかない。

ユリにすでに別の相手との子どもがいるとわかって動揺し、泥酔してベッドに倒れこむ、前後不覚状態のヤーノシュと、手慣れた手つきで彼をバスルームで世話する養護者のような態度のユリの姿は、既に対等でないふたりの関係をはっきりと示す場面のひとつにも見える。未熟さと成熟、という二項対立で人間を評価する危うさを知りつつも、ヤーノシュにとって「大黒柱として生きる」というのはいったいどういうことなのだろうか。(「大黒柱」という訳に古めかしさを感じつつ、時代設定を思うと「あり」なのだろうか?「家長」的な意味合いも含みますか?)子どもの父親でもある以前のパートナーの大学教授の洗練された振る舞い(とはいっても別の家庭を持ちユリと結婚する気はない)と見比べると、ヤーノシュの言動はあまりにも「マチズモの権化」に映る。

 

完成途中の家の中、ヤーノシュの家族の面前で、自分には5歳の息子がいるとはっきりと伝えるユリの態度は、大学の口頭試問や工場の懲罰委員の前でいま問われている内容について淡々と答える際と何ら変わらない。パートナーの母から罵られても、恥じることは何もないと堂々とした姿のユリは、ヤーノシュから絶縁を言い渡された最後の最後にふいに涙をこぼす。初めから惹かれ合うべきではなかった二人かもしれないけれど、やっぱりあまりにも酷いヤーノシュのやり口はユリに「出会えるといいわね、ずっと家にいて子どもを産むだけの、奴隷みたいなひとに」という台詞を引き出すに十分なものだと思うし、あの言葉が彼にとって呪いになってほしい。


当時批判が集まったというユリの出産映像(モノリ・リリが実際に妊娠し、出産する様子)はいったいどういう順番でこの映画が撮られたのか?!(役柄が決まってから妊娠が発覚したとパンフレットに書いてありました)という方に意識がいってしまったけれど、出産という行為自体、もうあまりにも大変すぎる、すべての妊婦と生まれてくる子どもの安全を祈るしかないというある種画一的な感想しかひねりだせない。ただ圧倒されてしまう。

命をかけなくていい側はせめて立ち合い出産でこの状況を知っておくことぐらいはやるべき、とひとりで産んでいる人の映画を見た感想として適当でないことを考えてしまったが、そんな過酷な状況にただひとりで臨むユリの姿に、思わず映画の向こう側の「現実」にこちらが引っ張り込まれてしまいそうになるほどの衝撃を受けた。「凄み」を感じこそすれ、この出産という行為を美化したくない、という気持ちは、個人的にはその行為者への敬意あってのものだ。

 


主人公ユリを演じるモノリ・リリの、ふっくらとした子どものような頬とずっと何かを拒絶している目つき、強情そうにゆがむ口元のアンバランスさがとても魅力的で、個人的にデコちゃん(高峰秀子)と近しいものを感じていた。肝の据わった役柄が似合うところも似ている。

 


『ユリとマリ』でも同役名を同じ役者が演じる (なんならバートナー男性役も同じ人(!)だと知って、こちらも見るのが楽しみです。