毎日がレジスタンス/松田青子『持続可能な魂の利用』
松田青子『持続可能な魂の利用』
この作品もディストピアSFといっていいんだろうか?
基本設定めちゃくちゃ現代日本ですが。
恒常的な息のしづらさを当たり前と思っていないとこの国ではやっていけないと思いこんでいたけど、でもそれってなんでなんだっけ?だれに気兼ねをしていたんだ?少なくとも、生きづらいんですけど?!とひとり叫ぶことくらい、他人の目を気にする必要なくない?
そんな物語のバリエーションが増えてきつつある時代において、鼓舞される物語の一つとしての『持続可能な魂の利用』
日本で女として生きることで、魂の満タンチャージが「82%」くらいに減ってしまった主人公の敬子は、想像上の楽園に残りの「18%」を保険として預け、魂を自由な少女たちの姿で駆け回らせることで、現実をなんとか乗り切っている。××というアイドルグループにはまってからの彼女が楽園に想いを馳せるとき、少女たちは××たちの姿をとるようになった。
敬子が生きる現代日本パートの合間に、彼女の魂の少女たち(?)が敬子が生きる現代日本にまつわる「授業」を受け、思い感じたことを率直に話し合うパートがさし挟まれ、物語が進んでいく。
敬子にとって「18%」の魂が××の姿かたちをとっていることは、私にとってはタカラジェンヌをそれとして想像することと同じなのかな、と考えると、なんだかわかるような気がした。(自分ごととして置き換えるとあまりにもおこがましいが…)
きっとついていけなかった女の子も中にはいたでしょうが、アイドルとして異形を求められた彼女達は、異形であることを楽しんでいました。
(p.170)
上記の文章は自分が好きな世界の彼女たちにも通じるように感じる。
こうあるべき、の縛りが強い世界で、でもその縛りをあくまでごっこ遊びのルールのひとつとして、真剣に、含み笑いでこなしてゆくこと。もちろんルールの程度にもよるのだけれど。
ふたつの世界を比較したとき、舞台に立つ側が女性で占められているという以外は異なる部分も多いけれど、一番大きく異なるのは、プロデュースが主にどういった客層に向けて行われているか、という点だと思う。
それは実際の女性ファンの数ではなく、プロデュースする側がメイン客層をどう認識しているか、それがこの物語のなかでどう捉えられ、描かれているかという話だ。
途中で差し挟まれる少女たちがアイドルについてのグループ研究成果を発表するパートでは、彼女たちのアイドルとしての××に対する見解が、そのまま作者の好きな現実のアイドルグループに対する作者の祈りのようにわたしには読めた。
しかしその解釈自体には夢を見つつも、モデルとなった現実の彼女らのことをそこまで知らない人間には、作中に描かれているほどの期待を寄せられる存在と認識できず、やっぱり「おじさん」のプロデュースしているアイドルだしな…という意識の方が先に立ってしまい、この物語のなかではそういう存在として生きているんだな、という認識をするところまでしか落とし込めなかった。これは好みの問題もあるので、だからつまらないとか、そういう話ではない。
現実に「おじさん」がプロデュースした量産型アイドルグループにバリエーションがあり、そのひとつに傷付けられ、あるひとつに救済されるおかしさ、構造のいびつさという設定が現実に存在するインパクトは凄まじいので、この設定ありきで「おじさん」に「少女たち」が見えなくなる(見えなかったらプロデュースできないじゃん)という話が生まれたと思うのだけど、個人的にはモデルが明確すぎること、かつそのモデルが自分の好みとは少し異なるように思えることで、物語の根幹に関わる部分に乗り切れなさを感じたのかもしれない。
少女たちに置いてゆかれる側の「おじさん」が少女たちの声を使って、社会に服従するなとメッセージを発信する(というていをとる)滑稽さ、ある意味での醜悪な構造を踏まえつつ、「おじさん」が書いた、「おじさん」が押さえつけられるくらいのかわいい反抗心くらいしか育てる気がないだろう政治的な歌詞を少女たちが歌う過程で、意図していた範疇を超えて彼女らが意思を持ってしまった可能性にかける物語、というのはとてもおもしろい。
なぜ前者のような構造をはらんだ存在に惹かれてしまうんだろう?と掘り下げて描かれている物語なので、そういう構造を理解しつつ強烈に惹かれてしまうことがある、という心の動き自体はとても理解がゆく。その上で、わたしはあまり惹かれないかも、と思う。物語自体にのれるのれないは、もはや好みの問題でしかない。
敬子が職場を追われる事件の、気のせいか?と周囲に思わせるようなハラスメント具合のリアルさが、とてもなまなましく想像できるものでげんなりしてしまう。げんなりしつつも、彼女のために怒り、立ち上がる女性の姿に救われる。自分なら同じことをできるかと自問自答しつつ。
魂の少女たちが「女子高生」について学ぶ授業では、自分たちが「女子高生」に分類されていた時代、「女子高生」がどんな扱いを受けていたかを知って、言葉を失う場面に「あたりまえ」に慣れ切ってしまった自分がどんな恐ろしい国に生きているかを自覚する。
たとえば、わたしたちが今こうしているだけで、道を歩いたりしているだけで、性的な存在とされるなんて、普通に考えて意味が通らない。理解できない。
歴史には、戦争や侵略など恐ろしい出来事がちりばめられていて、その恐ろしい出来事には常に性的に搾取される女性の存在が付き物だった。
でも、この「女子高生」の時代に、日本では戦争は行われていなかったはずだ。
(p.116ー117)
あまりにも子どもを産みづらい国であった理由が明らかになってからの怒涛の展開、飛躍にぶっとばされつつ、最終的な「肉体」を持つには人類(日本人に限定?)は未熟すぎた、という結末に、土萠ほたるちゃんがセーラーサターンとして振り下ろす鎌が見えた。
生まれる子どもを増やしたいのに、なぜ保育園が足らないんだろう?
女性が働き続けないで子どもを養えるような、余裕のある家庭はこの国にはそこまで多くはないことが見えていないんだろうか?
なんでいまだに女が子どもを見るほうって暗黙の了解があるんだ?
そもそも婚姻関係にないペアが、ペアでない人間が子どもを育てやすくする仕組みを作ったら、子どもを安心して産み育てようと思う世の中に結びつく、という発想はないんだろうか?
いまの政府が想定している世帯以外で子どもが生まれること自体が問題、という発想から、こういう現実があることは想像がつく。でもこの物語のなかではその理由について、実はこの国では子どもを増やしてはいけないということになっているけど、そのことを公にできないので回りくどいいやがらせを国家事業として成していた、というオチがついていた。
な、納得〜!と思いつつも、日本が地球全体のバランスを鑑みて少子化を目指さねばならないハズレくじを引いた、ということにすると「おじさん」の仕事のうまくなさが「おじさん」のせいではなくなってしまう気もした。でも「おじさん」に退場してもらうにはもうそれくらいの事実(?)が明るみにならないと無理なのだろうか。
××たちが政権を握った後、国外に旅立った「ファン」のひとりはおそらく敬子で、そりゃあわたしも「I want more.」を叫べる国で生きられるならそれを選ぶと思いつつも、彼女は「推し」がつくる国で生きることは選ばなかったんだな、という選択がぐさりと刺さった。
肉体を失う兆しもなく、少女でもなく「おじさん」も見えなくならない国に生き続けるしかない人間は、せめて「おじさん」を忌み嫌いつつ「おじさん」にいつのまにか同化しないよう生きていきたいと願っている。