男の傍らの女たち / インゲ・シュテファン『才女の運命』

男の傍らの女たち / インゲ・シュテファン『才女の運命』

 

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 天才と賞賛されてきたさまざまな男性たちの影で才能を搾取されてきた女性たちの人生を掘り起こす本なのだけど、なんだか読んでいてひたすらに落ち込んでしまった……それぞれの人物毎に、文章量としては読みやすくコンパクトにまとめられているのだけど、ひとりひとりの女性の人生に降りかかってくる出来事の過酷さに、ひとり分読み終えるごとに何かを背負った気持ちに勝手になってしまった。もっと実際の記録を引いて細かく深く書いてほしいと思う部分もあるけど、本書で取り上げている「才女」の人数を考えると配分としてはこれくらいがいいのかもしれないし、才能ある女性たちの人生の一部を、大部分を、ある意味養分として成功の花を開かせた男性たちよりも、彼女らについて残されている記録が圧倒的に少ないから、ということもあるのかもしれない。

ケイト・ザンブレノの『ヒロインズ』がとても頭をよぎると思っていたら、訳者あとがきにまさに名前があげられていた。曖昧な書き方だったけれど、『ヒロインズ』の刊行が、本書が再販されるきっかけになったという意味だろうか。

 

 彼女たちの多くに共通する体験として、幼少期から才能ある父親に見出され寵愛(今の感覚からすれば虐待と紙一重な教育も含む)されていたため、母親より父親に執着心を抱き、それゆえにパートナーの男性にも父親に求めるものと似たものを求めることになる、というエピソードがあった。初めは父親と同じく女性たちの才能に惹かれていた男性たちが、結婚によって掌を返したように彼女らに才能を投げ捨てさせ、妻としての振る舞いを求めるようになるその皮肉。全員が全員、結婚当初から掌を返すわけではなく、もう初めから全然だめだろ!?という浮気男のトルストイのような事例もあれば、初めはかなり対等なパートナー関係を築いていたように思えたのに子どもが生まれた途端アインシュタインよお前もか、の事例もあって、天才男のパートナーに対する振る舞いフローチャートが作れそう。

 

 カミーユ・クローデルの章では、以前『GOLD』というカミーユ・クローデルが主人公のミュージカルを観たときに、ロダンにひたすらにムカついていたことを思い出した。主人公がカミーユだったのもあるけれど、自分の感じたむかつき度合いとして、ロダンを必要以上に偉大に書いて、カミーユを矮小化させる、という作品にはなっていなかった記憶がある(カミーユの新妻さんもロダンの石丸さんも素敵でした)。しかし本書を読んでから今見返したらどう思うかはわからないなとも思う。同じ分野の芸術家同士が愛し合い共に暮らすことは難しいと、性別により背負わされるものの差異ではない方向に読み解いていた記憶もある。

 また、カミーユはその作品が本書で紹介されている女性たちと比較すれば数多く残っていて、現代では光が当てられている芸術家だと思うので、本人の日記や手紙等の記録or作品が残っている、残っていないということはやはりとても大きいのではないだろうか。例えば公文書なら、他の部分がきちんと「ある」のに、その一部分が「ない」ということで浮かび上がることもあるだろうけれど、個人の記録でその大半がない、となると膨大な空白の前に立ち尽くし、思いを巡らせることしかできない場合も多いと想像する。

 

 また、クララ・ヴィーク=シューマンの章を読みながら、以前シューマン夫妻とブラームスが登場する宝塚歌劇の作品を映像で見たことを思い出した。クララもまた、父親に才能を見出され、虐待と紙一重の教育を受けた女性であること(本書を読んだだけだとモーツァルトのような英才教育だなと思った)、加えて、理想の関係を築いていたように認識していた彼女の夫であるローベルトとの理想的とは読み取れなさそうな数々のエピソードを知ると、才能ある故人(男性)を物語の中でより理想化して描くことの是非について考え込んでしまう。クララが才能がありながら家庭に縛られていること、家族に奉仕する立場であることの苦しさのようなものを一切排除した演出ではなかったけれど、宝塚歌劇の場合、作品内で比重のある役はどうしても魅力的に、クリーンな存在として描かれがちだ。観客もそこに夢を投影してしまうことが多い分、物語の都合上、脚色している部分が多いという前提であっても、これからの時代、本書で取り上げられている女性たちのパートナーのような男性を主役や、それに近い位置に据えて、真正面から描くことは難しいのではないかとも思った。

 

 ゼルダ・セイヤー=フィッツジェラルドの章では、ギャツビーですでに減退していたスコットの本を読みたいという気持ちがもうほとんど消え失せていきそうになった。ゼルダの手紙や日記の文章はとても好みで、彼女の作品を手に取りたくなったけど、スコットの本を読んでも、この文章を継ぎ接ぎしたものに出会えるのか家庭内盗作と思ってしまって複雑。

 

 読み終えた直後の頭の中に、才能ある女性が大成できなかったという事実への悔しさと「内助の功」を求める時代の男たちへの憎しみが渾然一体となってドロドロと渦巻いている。さすがに本書に書かれた時代の女性たちよりはマシになっている、なっていてくれと願いながら、「内助の功」でGoogleニュース検索したらその勢い衰えず、という状況でうわーっと叫び出したい。女性の活躍の場という意味では前進しつつある(?)ものの、後者を求める才能ある/ない男性はまだまだ絶滅しないことについて考えるとき、私の頭に浮かぶのは「外注」の2文字だけど、全てそういうわけにもいかないのだろう個別の様々な事情を思う

 取り上げられている女性たちが男性たちが大成するために行った奉仕の大きさを知ると、男女によらず、天才と称される人の傍らには、シャドウワークに徹する誰かがいて「天才」と呼ばれる人は、才能がただしく機能するための全体の構造の一部分、噴出口でしかないのでは、と思ってしまう。もちろんいろんな「天才」の形があるので一概には言えないのだけれど、誰かの圧倒的な負担の上に成り立つ才能を、その功績を圧倒的な負担を知ってなおありがたがれるのか、ということに思いを馳せた。