ウルリケ・オッティンガー ベルリン三部作『アル中女の肖像』

ウルリケ・オッティンガー ベルリン三部作『アル中女の肖像』を見た。

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見た目にふさわしい洗練された大人の振る舞いをし続ければ社会に丁重にもてなされる側の美しく装った彼女「アル中女」は、あらゆる場所で呑んだくれては、社会のつまはじき者扱いを受ける。けれど彼女をゆさぶるのは酒そのもの、あるいは飲酒ができるかできないか、それだけ。


「社会問題」「正確な統計」「良識」という役名を持つ女性3人が、彼女のいく先々で各種統計数値を引用しつつ女の飲酒にまつわる問題点を、彼女の飲酒のBGMのごとくひたすら語り合うため、ほぼ言葉を発しない「アル中女」が一人きりで/女同士でひたすら「酒を飲む」という行為がより異質なものとして浮かび上がる。


窓ガラスや鏡に水や酒をぶっかけてはそこを覗き込む「彼女」の表情に、他者の目に映る自分自身を確認するような意図を読み取ってしまうけれど、彼女が自らの行動の理由を深く語らないからこそ逆に好き勝手に意味を見出す観客側、彼女をまなざす側の固定観念を彼女に見透かされているような構図かもしれない。


過度のドレスアップも飲酒も、社会に女が望まれること/望まれないことのメタファー、という見方はあまりにも単純化しすぎだろうとは思うのだけど、バイナリーな性別役割の批判だけにはとどまらない魅力がある、社会で周縁化される人/物にも焦点を当てた作品。


もちろんただ映像を眺めているだけでも構図や配色がとても格好いいため、こんなふうに着飾って酒をぐいぐいあおってみたい、というストレートな欲望もかき立てられる。

また、現在多和田葉子を読むターンのため、三人の女性の役名や冒頭の地の文ナレーション(?)の淡々とした、けれどどこかユーモアを感じる言葉づかいに、多和田葉子作品でよく登場する、言葉を脱臼させる文章群に近いおもしろみを感じた。