「アポカリプスは俺にとっちゃ友達だ。俺はアポカリプスを感じるし、俺たちは隣り合って育った……。」/エドゥアルド・ヴェルキン『サハリン島』

「アポカリプスは俺にとっちゃ友達だ。俺はアポカリプスを感じるし、俺たちは隣り合って育った……。」/エドゥアルド・ヴェルキン『サハリン島

 

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サハリン島』を読みながら『鯨』(チョン・ミョングァン)のことを思い出したのは、私に暴力描写の経験値(読む方)がないからだと思われる。物語の全貌を知っていたら果たして?と読み終えた後に良くも悪くもぼうっとしてしまった人間が『サハリン島』を手にとったのは、本屋で立ち読んだ冒頭の文章に惹かれたからです。『わたしたちが光の速さで進めないなら』が短編集だったので、分厚い長編SFもいいかなと思ってしまったのが運のつきだったのか、はたまた。

 

空想にふけりすぎなのだと思う。

我が家に代々伝わるマッキントッシュのレインコートは、色あせた濃い濃い緑色。よく目立つ赤い脈のような線やまばらな金色のスパンコールがついていて、まるで油のしみ込んだモロッコ革のそのコートの中に透明な肉体が現れてその内部が透けて見えるかのようだ。落ち着きのない若い神々の時代には、馬鹿なドラゴンの上瞼からこのようなコートを縫ったものだ。マケドニアの不屈の騎兵達の血でなめし、スパルタの女達の涙で塩漬けにされたドラゴンの上蓋。

 

 

旅に出る主人公は、レインコートをよくよく検分し、そこに先祖代々の持ち主の冒険の痕跡を嗅ぎとる。補修すべき穴には布を当て、さらに自分に馴染むよう丈を詰めるか考えたのち”時の洗礼を受けた機能を怪しげな美学で壊すのは野暮というもの”と思いとどまる。

この一連のディティールにやられて先に読み進めてしまうと、描写の「ていねいさ」、しつこく探る視線が暴力行為や人間の差別的な言動に向いたときにうっと立ちすくんでしまうので注意が必要。しかし映像だったらかなり厳しい描写を、最初は立ち止まりつつ次第にそういうものとして受け入れてしまうのはなんでなんだろう。かといって俗世を忘れて面白さにどっぷり浸れるかというと、これが「エンタメ大作」として発表されていることに、まじか……と慄きもする物語。

 

遅ればせながらの簡易なあらすじ。

舞台は北朝鮮弾道ミサイル発射により勃発した第三次世界大戦後の世界。

太平洋全域を制圧し大日本帝国として返り咲いた「日本」の保護下にあるサハリン島は、犯罪者たちの流刑地となっていた。ロシアと日本にルーツのある主人公シレーニは、未来学者としてサハリン島へフィールドワークに向かう。

島でのボディガードとして手配された銛族の青年アルチョームとともに各地で目撃する光景、刑務所にすむ人物たちとの出会いは彼女に強烈な印象を与えるが、道中発生した自然災害が引き金となり、旅は思いもよらない展開を迎える。シレーニら一行は島から無事に抜け出せるのか、彼女らの運命はいかに?

 

あらすじを聞いただけでぎょっとする人も多そうだし、私もそちら側の人間です。

寡聞にも、チェーホフが同タイトルで執筆した旅行記録および流刑地調査記録(18931895年)であるルポタージュ本の存在を知らなかったのだけど、その『サハリン島』を意識した本作は、物語の流れ以上に、島で出会う人々、風習が丹念に描かれている。

 

その人々や風習の具体例を挙げることが憚られるのは、太平洋全域を制圧し大日本帝国として返り咲いた「日本」で暮らす単一民族、という意識が肥大化した日本人が他民族や犯罪者へ差別的な言動を繰り返す様子がすぐそこにあるものとして、シレーニの目を通して描かれているので、その一つ一つの事例を羅列しただけでは、ただ差別を内包する構造を許容して面白がっている物語のようにとらえられてしまう危険性があるから。

 

島には犯罪者だけでなく、刑期を終えた自由民と呼ばれる人々や、給与面での好待遇を期待して島での仕事に手を挙げた人々、朝鮮人、中国人が住んでおり、日本人の他民族への日常的な差別や、人々の鬱屈を晴らすため彼らが生贄のように扱われる様も描かれている。

 

訳者あとがきにも差別を許容する意図はなく、あくまで「大日本帝国」が再建されたという設定に基づく世界で生まれる民族による階層化、蔑視を描いたとの記載があったけれど、作者にその意図がないにしても、現在の日本で生きる、ルーツで差別を受けることのない側の日本人の一読者としては、加害者側の意識の持ち合わせがないか常に探られているような、強烈な風刺が含有されている物語のように感じ、落ち着かなさを終始噛み締めていた。ラストへの運びも、物語の設定上予想できたものだったにもかかわらず、そういう視点込みで読んでしまったせいか非常に衝撃的で、過度にしつこいとも思える旅の背景、そこで生きる人々の風景の描写は、読者にこの展開を「体験」させるためでもあったのではと思ってしまった。

 

本作の設定から、読者が日本とロシア間の領土問題を意識することは当然のことなのだろうけれど「日本の保護下」に置かれているサハリン島が舞台の物語がロシアの作家によって書かれ、その設定がロシアの読者にどのような印象を与えるのだろうということがとても気になってしまう。そしてその「日本」は欧米を抑えて世界で唯一の一大工業国となった、かつその再建の性質から他民族への差別が凄まじい野蛮な国である、という設定のSFがロシアで出版された、その物語が日本語に翻訳され、私はその本を手にとっている、という構造に、日本の一読者のわたしはくらくらしている。

 

じゃあなんで読み通したんだと問われれば、やっぱりこの物語が面白かったからに他ならない。興味本位でシレーニの一同行者を請け負ってしまった、一緒にサハリン島を歩き回る仲間のように、別に全然知りたくないと思っていた各地の刑務所の内部を見回るうちに、「ぶちのめされる」ある人々の光景を見るたびに、この「地獄」のような世界は「地獄」ではなく、むき出しの人間を煮詰めていった、未来の分岐点の先に確かに存在するもしもの世界では?という突き放せない距離まで近寄って眺めてしまう感覚。さながら本作に登場する、水とMOB感染者のような。

 

シレーニという主人公は、一見冷静な目で島に住む人々の言動を捉え、読者の目となる存在のように思えるけれど、その様子を野蛮なものと認識することはあっても、彼女自身がその構造について過度に批判的な意見を持つことはなく、改善を促すようなアドバイスをすることもない。それどころか「ぶちのめし」に未来学者として興味を覚えすらする。また、殺人を厭わない淡々とした様子、巧みな銃の扱いは「そういう世界だから」と読者を納得させる以上の印象を残す。

彼女はあくまで観察者で、「サハリン島」の外に生きる人間としての立場を崩さない。けれど同時に「サハリン島」という機能を持った島が存在する『サハリン島』の世界の住人であり、その世界を外から眺めることができるほどの超越した立場の人間ではない。

 

 

(承前)島はな、流刑地じゃなくて、蒸留器なんだ。放射線とか飢えとか病とか、それは単に触媒なんだ、成長の要なんだ。移行のためには、ある点が、きたるべき世の粒が必要なんだ。その周りに荒れ狂う明日という日が燃え上がる、そんな点だよ。そんな点をいったいどこで手に入れられる!?(p.258

 

チェーク(チェロヴェーク)という、ロシア語で「人間」を意味する名を持つ烈しい老人がシレーニと交わす会話には、この『サハリン島』という世界の構造を捉えるヒントになるようなエッセンスが含まれているように感じた。

 

また、ここまででは倫理観・道徳観の狭間でウロウロしながら構造を眺める話を主にしてしまったけれど、この物語を面白く感じたのは、一見筋道だったやり方で細やかに語ることによって、もしかしたら現実にあるのかもと思わせる設定、各地の刑務所の内部や人物造形を積み重ねることで生まれる一つの世界の作り込み方、「ない話」を「ある話」に見せかける魔術師か詐欺師か、という鮮やかなやり口に魅了されてしまったのもある。特に印象的だったのは、建築家チカマツによって設計された囚人たちの理性を奪う刑務所〈軽やかな空気〉、高校生のシレーニにその詩の素晴らしさを印象付けたシンカイシロウの設定。panpanyaクラフト・エヴィング商會の、語られることで現実との境界線が曖昧になる感覚に、そのある種の恐ろしさに魅了されている人には向くかもしれない。

 

その細やかな描写の合間に、民間伝承として語られるトイレのヒロコやシュノーケルが突如せり出て川を渡れる車etc. わかってやってるだろ!?というツッコミ不在のネタが入り込んでくる目の話せなさもあります。

 

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