「あたし、年取らないことに決めてますから」/小津安二郎監督「東京物語」

「あたし、年取らないことに決めてますから」/小津安二郎監督「東京物語

 


  ひとつの家族が畳まれてゆく姿を通して、戦後の時代の終焉に向かう価値観が示された映画と思って見た。

 自分もこのように親に期待されているのだとしたら苦しいが、期待に応えたい気持ちが捨てきれないという苦しさもまた存在するな…と、これまでの人生ですでに出会った/これから出会うであろうシチュエーションに辛くなりつつも、この時代にすでに血縁家族の息苦しさを描いた映画が作られていたのだということに救われた気にもなった。

 物語終盤の義理の姉・紀子から妹・京子への言葉で明確に語られているように、歳を重ねればそれぞれの生活ができ、家族はバラバラになる、という事実がそういうものとして淡々と描かれている映画だと認識しているけれど、親子の絆も寂しいものね、それに引き換え義理の娘の原節子のやさしさといったら…(感動)といった見方をする人もいるのだろうなと思う。親のような年齢の人たちに自分たちの人生はよいものだったと思って生きて欲しい気持ちはあって、それはきれいごとではなく、自分たちが同じくらいの年齢になったときに人生をよいものだと思いたいからというのと繋がっている。でもそこに子どもに対する過剰な期待、その子どもの人生の成功込みで自分たちの人生のよしあしを決めて欲しくない気持ちもある。

 これを若い頃に面白く見ていた人は自分が親の立場になったらどういう視点で見るのだろう、そして自分もまた歳を重ねてから見返したら視点は変わるのだろうか、と思うような映画でもあった。


 血のつながった子から親への孝行が気持ちがゼロではないけれど形骸的なものとして描かれるなかで、戦死した次男の妻の原節子が徹底的に「わきまえた良い嫁」として振る舞う姿を、義理の父が「こんなに良くしてくれるのは他人のあんただけ」と口にする終盤の場面がとても象徴的で、亡くなった次男の妻という血の繋がりのない彼女がいるからこそ、血縁関係にあるひとつの家族が解体されて、また別の小さな家族が作られてゆくさまがくっきりするように見えた。

 途中まで「嫁」が義理の親を喜ばせようと甲斐甲斐しくケアする姿を美しいものとして描かれることへのしんどさが先に立っていたけれど、ケアを担わされる側の原節子の亡くした夫への想いを通じて家族の縁に対する感情が発露される場面で、彼女もまた義理の関係であっても家族が解体されることに心細さを覚えるひとりだったのだろうかと気づかされ、物語の受け取り方が少し変化した。戦後の誰もが家族の誰かを失っている状況、かつ女がひとりで暮らしてゆくことが困難なことが想像される時代において、一人で生きてゆくよりも、義理の親であっても誰かと結びついていたいという切実性は、現代を生きる私が思っている以上に強いものとして存在するかもしれないという想像。義母への「あたし、年取らないことに決めてますから」という台詞は、耳にした直後はギョッとしたけど、歳を重ねないと決意することで亡き夫のことを忘れないように生きる、イコール義父母である人たちとの関係を切らずに家族の絆に縛られていたいという意味にとってよかったのか。

 義父への「あたし、ずるいんです」という告白は、世話を焼かれる方もまたその厚意を受け取る心構えが必要になるとは思うけれど、そうは言ってもこの場面で原節子演じる紀子がずるいと思う人っているのだろうか? ひとつの家族が役目を終え、解体されゆく過程で、息子や娘側に属する存在のうち、彼女だけがその事実を強烈に意識して時の流れに逆行して振る舞うのは、彼女ひとりの思いでどうにもならない状況がそこにあるからではないだろうか?

 夫を亡くした後に「誰かいい人がいたら…」という言葉を、親切心から出たものであっても義理の親からしつこくかけられることは、当人にとって「いい人」の要不要を問わずつらいだろうけれど、この作品では、この時代に女ひとりで生きていることをはつらつと肯定的に描くよりも、その違和感を感じている女性を描くことで、確かに存在するであろうつらさを可視化させるほうをとったのではないか、と考えている。

 


 上記理由を想像していったん納得しつつも、やはり原節子の甲斐甲斐しさは、義母の危篤の知らせに駆けつける際、喪服を持ってこないという選択含め、あまりにも実在を疑う「嫁」ぶりなんですよ。かつ感情を吐露する場面も相手が受け止められるタイミングばっちりアンド受け止められる範囲のものにわたしには見えてしまい、こりゃやっぱり都合が良すぎでは〜?と大きくのけぞったとき、本当は次男は存在せず、紀子は家族の絆を求めてまったく縁のない家にするりと溶け込み棲みつく系妖怪なのでは?という妄想がポンと浮かんだ。

「あたし、年取らないことに決めてますから」ってそういうことだったのか…?(違います)あるいは「あのときあなたに助けてもらった鶴です」みたいな原節子…そういう、温度は低いが湿度は高いような印象を受けた。

 紀子側の親族の描写がないことも、亡き夫を通して義理の親、親族らとの対比を際立たせるためだと想像はつくけれど、原節子の浮世離れした様子から、もはやそれすらも親族の不在を連想させるためなのかどうかわからなくなる。彼女は初めから成人した紀子という存在としてひとりでぽこんとこの世に送り出されたのでは?とすら推測してしまうようなよるべなさがある。


 義父母へのかいがいしさは基本的にとても節度を保ったものなのに、義母に小遣いを渡す際の掌にねじ込んで上から掌を重ねるというボディタッチ(??)とダメ押しの伏目がちなほほ笑みの威力がすさまじいし、ラストシーン間際の義理の妹・京子の身なりを出勤前に整えてやる手つきのまめまめしさも含め、男性陣には一切ないからこそ、義理の家族の同性への、ここぞというときのスキンシップから透ける気持ちの寄せ方にじっとりしたものを感じてちょっとびびった。これから直接的に父のケアを担わされるであろう京子にとって、義理の姉の存在は大きいものになるかもしれないけれど、妹へのでかい矢印フラグが見えて、京子気をつけて?!とも思ってしまった。これをシスターフッドと呼ぶのはちょっと何か違うと思わせる距離の詰め方。

 


「義理の嫁」である原節子を中心に見てしまいがちだけど、子どもはおらず(たぶん)、自分が経営する美容院でバリバリ働く長女の、実の親に対するからりとした距離感は見ていてけっこう救いだった。母への余命宣告に泣き出すのも泣き止むのも早い。通夜の食事の場で、父の方が先ならよかった、と当人が席を立ったちょっとの隙にあっけらかんと口にする姿が、でもこういう人いるよね、と思わせる、悪人ではないほどよさで描かれていること。

 遠方に住む親しい人の危篤に駆けつけるときに喪服を持参する/しない問題は永遠の課題な気がする。喪服エピソードも含め、全編を通して、見ていて若干気まずくなる、そのドキッ!で鑑賞者に何かを強烈に印象付けるようなエピソードを入れ込む方法が好みだなと思う。

 


 また、父と母の、ただにこにことそこにいるだけで娘や息子たちに何かを期待しているように感じさせるオーラの描き方がとてもうまいので(演出というより親というのはみんなそういうものかもしれませんが…)、そりゃ東京見物連れてこうとするよね、でもめんどうだよねと思うし、そういうところに原節子みたいな義理の妹がいたら使ってしまう、それでも間が持たないなら熱海にでも行ってもらいましょうか、お金出すくらい安いもんよ、となるよな〜〜とめちゃくちゃ納得しつつも、子どもらに厄介者扱いされていることをうっすらと感じている、大きな感情を表情には載せない父と母のまるめた背中に罪悪感をおぼえてしまう、ので子どもへの期待をむげにもできない、というスパイラルに陥る…そうなったときに非実在嫁の原節子に自分の中のなけなしの孝心を託して、ありがとう節子…私はあなたのようにはできないけど…みたいに見てしまう可能性もなくはないのかもしれなかった。たぶんそういう映画ではないが…

 

 

 

印象深いシーン箇条書き

・祖父母の部屋を用意するために机を片付けられた子どもが駄々をこねる様子が、勉強机として普段遣いしていなかったとしても、子ども部屋がない子どもにとってみたら、机のあるなしで自分の居場所が奪われてしまったかのように感じるだろうなと気持ちがよく伝わる場面だった

・熱海旅行の眠れない夜の描写とふたつ揃えた靴のカット。うるさい!と怒鳴ってくれたらよっぽどよかったけど、それすらない、団扇で身体を叩く姿を延々見せられることによる、カタルシスのなさのつらさ…

・今夜の宿のあてを求めて二手に分かれる父と母が上野公園で座り込む様子

・義母を泊めた夜、布団に仰向けになる原節子の寝る直前の横顔。ただぼんやりしているだけでも、何かを深く考え込んでいるように見える顔。

・義母が忘れがちな傘をいそいそとうれしそうに手に取る原節子

・実母の危篤の電報を受け取った時の長男長女の腰の重さ

・墓に布団は着せられぬ

「Hey, you bastards! I’m still here!」(ちくしょう)あたしはまだ生きてるんだ。伊藤比呂美『道行きや』

Hey, you bastards Im still here!」(ちくしょう)あたしはまだ生きてるんだ。伊藤比呂美『道行きや』

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 カリフォルニアから日本に帰国して、早稲田と熊本を行き来している伊藤さんの、連載エッセイと書き下ろしエッセイをまとめた本。ずっと読んでみたい詩人の一人として頭にあったのに、試し読みでひきこまれたエッセイから手をつけてしまった。

 

 あたしはこう思った、こうした、とぽんと放り出される言葉は気負いがなく読めるようでいて、今なんか物凄いことが書いてあった、と思わず立ち止まってしまう箇所がいくつもある。書いてある内容が難解なわけではないのに、植物から犬猫、人間まで、生き物の生死の取り扱い方にいちいちハッとしてしまう。生き物が老いて、いなくなっていくことを想像するだけで勝手につらくなって、積極的に生活をともにする構成員を増やすのはやめようと、植物やペットに対しても腰が引けている人間なので、伊藤さんからしたら勝手にすればという内容だろうけど、命あるものへのピントの合わせ方、ぼやかし方のグラデーションを読みながら、自分の漠然とした「辛さ」をもう少し細やかに分けて考える必要があるなと、度々思っては実行に移せていない考えが再度浮かんだ。

 

 伊藤さん自身の耳が聞こえづらくなったことにより、夫が補聴器を使いたがらなかった記憶を思い出す箇所が特に印象に残っている。

 

そのhumiliationgな感じとはどんな感じだっけ。思い出してみた。

 恥ずかしいというのとは違う。恥ずかしいわけではないのだ。だって、年を取って、髪が白くなり、目が見えにくくなり、膝が痛み、月経がなくなり、耳の聞こえが悪くなる。全て何も恥ずかしいことではないのだ。

 ただ人には、前を向いて、頭を上げ、立ち上がって歩き出そうとする特性がある。それが意味もなく否定され、押しつぶされる感じた。それで頭を上げられず、前を向けず、立ち上がれないような、もどかしい感じでもある。(「耳の聞こえ」p.33

 

 脱走した犬を追いかける「鰻と犬」、「山笑う」を発見した「河原の九郎」、市民権獲得を考える「ひつじ・はるかな・かたち」、嫉妬や不在を感じ取る犬を観察する「犬の幸せ」

 

Hey, you bastards Im still here!」に、全然文脈は違うのだけど「のたれ死にしたって、わたくしの人生ですわ」(木原敏江『ユンター・ムアリー: 摩利と新吾欧州秘話』)をなぜだか思い出した。

 

 エッセイの中で学生時代に受講していた「文学とジェンダー」という講義と再会し(教員は変わるけれど科目名は変更がないのだと思う)とても懐かしい気持ちになったけど、”川の水みたいに、次の瞬間いなくなる”学生の立場だったため、何かに感銘を受けた感情の記憶だけ残って、何かの内容を綺麗さっぱり忘れてしまっている。リアクションペーパー

「現実八割幻想二割」『MONKEY』 vol.23 特集 ここにいいものがある。

 「現実八割幻想二割」『MONKEY』 vol.23 特集 ここにいいものがある。

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岸本佐知子柴田元幸短篇競訳」と聞いたら、岸本さんの翻訳文学行商人としての手腕に魅入られている人間として読まねばと思う。だいたいいつも買ったあとめちゃくちゃ積んでしまうんだけど、今回は短編ということもあり、えいやっと旬のうちに読めて嬉しい。毛糸との接続がいったん途切れ、読書につながった感覚がある。このブログのタイトルは一応yomuamu(読む編む)なので…

柴田さんの翻訳本は未読と思っていたら、レベッカ・ブラウン(好きです)を読んでいた。

 

 岸本さん訳のサブリナ・オラ・マークの短編3作を一気に読み、これはいったい、と頭の中がクエスチョンマークで満たされたけど、同時にわけがわからんものを読みたい気持ちも満たされた。「廊下で、娘まみれのお母さんと出会う。全部で五人」「娘は十五に増えている」(!??)みたいな容赦ない畳み掛け方の迫力に飲まれる。

 

 めちゃくちゃ岸本さんが好きそうなのがわかる(おこがましい物言いだ)ルイス・ノーダン『オール女子フットボールチーム』はオール女子フットボールチームの内側(女子)の視点ではなく、それを指をくわえてみている「女どうしの絆に嫉妬する」男子視点なのがいい。外側から見つめる男子によって女子が客体化されているのではなく、主体を取り戻した女子を見つめることによって自らを客体化の対象とし、最終的に男子の自分を意識し直す物語にも読めるし、それがユーモラスかつ切実なものとして語られているところ。男の子になりたい女の子の物語を読んでいた頃の自分が、これって「男の子になりたい女の子になりたい男の子」の話じゃない!?と興奮している。

 女子の美しい男装に対して、コミュニティのなかで一種の罰ゲームとして扱われる「女装」が、主人公にとって切実なものに変わる瞬間を「幻想2割」で描くバランスを、冒頭で南部の男性としての「男らしさ」をことさら強調される主人公の父にとっての女装の意味も併せて考えた。

僕の心の中には確かに欲望が、愛と言ってもいいものがあって、でもそれは黒とゴールドをまとったこの女性たちに向けられているのではなかった。

ルイス・ノーダン『オール女子フットボールチーム』(p.32)

 幻想成分多めの小説を面白がりたい気持ちは多分にあるけれど、マジックリアリズムに全振りしているとわたしは着地点がわからなくなるときがある気がするので、やはり現実8割幻想2割くらいが好みなのかもしれない。

 岸本さんの翻訳ものを読んでいると、絶対に体験したはずないのに、いつかどこかで出会った感覚に再会して懐かしさで泣きたくなるような瞬間があって『オール女子フットボールチーム』もそれだった。

僕は変わりばえのしない僕のままで、でも大太鼓の表面の弓と矢の毛羽立ったロゴマークと、それをぐるりと取り囲む〈ARROW CATCHER, MISSISSIPPI〉のかすれた文字は、お前のダメな部分がお前の敵ではないのだと僕に告げていた。

こういう箇所にいつまでもハッとしてしまう大人です。

 

 

 柴田さん訳ではカミラ・グルドーヴァ『アガタの機械』が特に好き。本当は大して仲良くなく気も合わないけどある目的のために放課後毎日一緒に時間を過ごす女の子二人、という設定がもうそれだけで良い。二人の遊びは光景が鮮やかに浮かぶようなぼんやりとしているような、じゃあなんでそれに延々と魅入られてしまうのかわからないようで、そういうことってあるよな、という謎の納得感もある。

 

 おふたりの対談が間あいだに挟まっているのも、友人に勧められてなんども聞き返した翻訳文学ラジオの鼎談を思い出し、嬉しくなってしまった。現実8割幻想2割くらいの話が網に引っかかるようになった岸本さんが、前は「幻想十割上等」と思っていたという箇所は、字面から肉声が響いてくるようなおもしろさがある。比率はもう少し幻想に寄っていたとしてもその中に現実に根ざしているとおぼしき人やものの細やかな描写がしっかりあるのがいい(意訳)という話にとても納得。アホウドリがぬめっと存在感をあらわにしていたり、雨でびしょ濡れになってそれ自体が泣いてるように見える靴下のせいで机の下にできた水溜りを後ろの席からのばした脚でならしてごまかしてくれる同級生との親しくなり方とか。

 

『変愛小説集』を積んでいたのでほくほく崩したい。

「変愛小説集」既刊・関連作品一覧|講談社BOOK倶楽部

 

既読の岸本さん訳短編集だと、『楽しい夜』が特に好き。ルシア・ベルリンもミランダ・ジュライも入ってる!

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「よく聞きなさい、秀雪。あたしは、今、あなたのそばにいてあげられない。でも、かのじょは片時もあなたから離れることはないわ」 温又柔『魯肉飯のさえずり』

 「よく聞きなさい、秀雪。あたしは、今、あなたのそばにいてあげられない。でも、かのじょは片時もあなたから離れることはないわ」

温又柔『魯肉飯のさえずり』

 

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 母と娘、台湾をルーツとし、日本に住む二人の主人公視点の章が交互に展開される物語。これまでのエッセイや小説もほとんど読んでいるので、温さんが何を核にして書きたいかという思いはひしひしと伝わるのだけど、娘の夫やその家族の描き方の厚みが、対する主人公側の家族、親族の書き込みと比べてかなり薄く思えてしまい、彼らが登場する箇所を「書きたいことのための設定」という意識を常にどこかに置いたまま読んでしまったのは、私の先入観の問題かもしれないけれど少し残念だった。「書きたいことのために設定を作る」ことは当たり前なのだろうけど、こういうテンプレート設定の男と家族像をわかりやすい障壁として持ってくる物語ってあるなという物語進行上の便利な存在のように思えてしまい、特に第1章はその設定を読者に説明する部分という意図を強く感じた。

 「加害者」側の彼らにも理由があった、という物語を読みたいわけではないし、日本社会が想定する「普通」の家族のほころびを描くためのあえての薄さとは思うのだけれど。また、その「家族」に対峙する主人公側の「家族・親族」像の、何があっても一緒に悩み受け止めてくれるどっしりとしたあたたかさが、私にとって少し窮屈なもののように感じられたのも引っかかってしまった理由の一つではある。

 

 子どもに対する期待を義理の家族からかけられると辛いけど、血の繋がりがある親族からならばそこまで辛く感じなかった、という桃嘉(娘)の心理描写も、発する側への印象によって言葉の受け取り方が違うという体験は実際あるものだけれど、そこに言葉(桃嘉は自由に使いこなせる言葉として叔母たちの言葉を受け取っていないというクッションもあるが)と血の縁が密接に絡み合っているから、という背景を透かして見てしまうと、個人的には距離を置きたいタイプの物語としての側面も見えてきてしまう。

 相手のためを思ってというおせっかいさの性質の紙一重さ。それがうれしい時と苦しい時、両方矛盾なく存在するという事実も承知のうえで、物語の中での描かれ方って難しい。その描写の塩梅が、ある意味血縁重視の社会の歪さが、別の血縁によって解決される物語ともとらえられる見方もできるなと思ってしまった。作中で円満に生活する秘訣として提示されていた、家庭の中で夫になんでも言える妻、のように、家族同士でもぽんぽんなんでも言い合えることが理想とされているならば良いのだろうか。こう言われたら嫌、ということを相手が先んじて言わないように回避するのではなく、言われたら嫌と言い返すことで、対話の中で生まれていく関係性であれば? でもその関係性も「家族」ありきなのか。

 その「家族」が仕事が忙しくて専業主婦の雪穂(桃嘉の母)に引越し準備を全振りしている「優しい夫」ありきで構成されているのが、1993年という設定を考えれば「優しい夫」像のリアリティもわかるし、雪穂が日本にやってくるのもそういう働き方をしている夫ありきなのはわかるのだけど、2020年に書籍化された(雑誌掲載は2018年)物語の設定として私はあまり素直に受け取れなかった。「嫁ぐ」ということの扱い、諸々の基盤の描き方を考えると桃嘉(娘)の名字の取り扱いも、生まれた時からの名前へのこだわり以上に「家族」「家」という単位を重視している風にも読み取れてもしまうのはうがった見方だろうか。(台湾では夫婦別姓だけれど、雪穂(母)は日本に帰化しているためその選択肢はなく、「家族」という単位の重要性を母が娘に説く場面がある)温さんのエッセイ等から感じ取っている主義を思うと、その意図はないんだろうなとは思うのだけれど、本作だけ読むとよくわからなくなってしまう。

 『来福の家』を読んだときは、温さんのエッセイを読んでからだと(ご本人の経験からのエピソードだな)という箇所がくっきりしてしまうところもありつつ、物語のなかで再度語りなおされることで立ち上がってくるものもあるとポジティブに捉えていたけれど、今回は(またこのエピソードだな)(重要なテーマとして度々取り上げたい意図はわかるけれど)という印象の方が強くなってしまった。

 

 雪穂(母)は桃嘉(娘)の自立心を重んじているし、お互い個として向き合う物語として描かれているとは思う、思うけれど。自分の根っこを強く意識してそれをポジティブに受け止める物語のバリエーションの一つとしてあまり好みではないかもと考え込んでしまう要因には、その根っこについて深く考えずに生きてきた私自身の特権への無自覚さもあると思うので、自分に合わないと感じただけでこの物語を否定できるはずがない、否定したいわけではない。

 

 しかし私が引っかかった要素を逆にポジティブに受け取った人は多いだろうなと想像しているので、日本の社会で台湾をルーツとする人たちが生活を送ることで直面するもの、私も含め、読者の多くがその障害を生み出す側の属性を持っていることを穏やかに突きつけつつ、血縁家族・親族の結びつきが肯定的に描かれた物語であることは共感を得やすいのかもとは思っている。(ロマンスに結びつきそうな老師のエピソードも含む)

「アポカリプスは俺にとっちゃ友達だ。俺はアポカリプスを感じるし、俺たちは隣り合って育った……。」/エドゥアルド・ヴェルキン『サハリン島』

「アポカリプスは俺にとっちゃ友達だ。俺はアポカリプスを感じるし、俺たちは隣り合って育った……。」/エドゥアルド・ヴェルキン『サハリン島

 

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サハリン島』を読みながら『鯨』(チョン・ミョングァン)のことを思い出したのは、私に暴力描写の経験値(読む方)がないからだと思われる。物語の全貌を知っていたら果たして?と読み終えた後に良くも悪くもぼうっとしてしまった人間が『サハリン島』を手にとったのは、本屋で立ち読んだ冒頭の文章に惹かれたからです。『わたしたちが光の速さで進めないなら』が短編集だったので、分厚い長編SFもいいかなと思ってしまったのが運のつきだったのか、はたまた。

 

空想にふけりすぎなのだと思う。

我が家に代々伝わるマッキントッシュのレインコートは、色あせた濃い濃い緑色。よく目立つ赤い脈のような線やまばらな金色のスパンコールがついていて、まるで油のしみ込んだモロッコ革のそのコートの中に透明な肉体が現れてその内部が透けて見えるかのようだ。落ち着きのない若い神々の時代には、馬鹿なドラゴンの上瞼からこのようなコートを縫ったものだ。マケドニアの不屈の騎兵達の血でなめし、スパルタの女達の涙で塩漬けにされたドラゴンの上蓋。

 

 

旅に出る主人公は、レインコートをよくよく検分し、そこに先祖代々の持ち主の冒険の痕跡を嗅ぎとる。補修すべき穴には布を当て、さらに自分に馴染むよう丈を詰めるか考えたのち”時の洗礼を受けた機能を怪しげな美学で壊すのは野暮というもの”と思いとどまる。

この一連のディティールにやられて先に読み進めてしまうと、描写の「ていねいさ」、しつこく探る視線が暴力行為や人間の差別的な言動に向いたときにうっと立ちすくんでしまうので注意が必要。しかし映像だったらかなり厳しい描写を、最初は立ち止まりつつ次第にそういうものとして受け入れてしまうのはなんでなんだろう。かといって俗世を忘れて面白さにどっぷり浸れるかというと、これが「エンタメ大作」として発表されていることに、まじか……と慄きもする物語。

 

遅ればせながらの簡易なあらすじ。

舞台は北朝鮮弾道ミサイル発射により勃発した第三次世界大戦後の世界。

太平洋全域を制圧し大日本帝国として返り咲いた「日本」の保護下にあるサハリン島は、犯罪者たちの流刑地となっていた。ロシアと日本にルーツのある主人公シレーニは、未来学者としてサハリン島へフィールドワークに向かう。

島でのボディガードとして手配された銛族の青年アルチョームとともに各地で目撃する光景、刑務所にすむ人物たちとの出会いは彼女に強烈な印象を与えるが、道中発生した自然災害が引き金となり、旅は思いもよらない展開を迎える。シレーニら一行は島から無事に抜け出せるのか、彼女らの運命はいかに?

 

あらすじを聞いただけでぎょっとする人も多そうだし、私もそちら側の人間です。

寡聞にも、チェーホフが同タイトルで執筆した旅行記録および流刑地調査記録(18931895年)であるルポタージュ本の存在を知らなかったのだけど、その『サハリン島』を意識した本作は、物語の流れ以上に、島で出会う人々、風習が丹念に描かれている。

 

その人々や風習の具体例を挙げることが憚られるのは、太平洋全域を制圧し大日本帝国として返り咲いた「日本」で暮らす単一民族、という意識が肥大化した日本人が他民族や犯罪者へ差別的な言動を繰り返す様子がすぐそこにあるものとして、シレーニの目を通して描かれているので、その一つ一つの事例を羅列しただけでは、ただ差別を内包する構造を許容して面白がっている物語のようにとらえられてしまう危険性があるから。

 

島には犯罪者だけでなく、刑期を終えた自由民と呼ばれる人々や、給与面での好待遇を期待して島での仕事に手を挙げた人々、朝鮮人、中国人が住んでおり、日本人の他民族への日常的な差別や、人々の鬱屈を晴らすため彼らが生贄のように扱われる様も描かれている。

 

訳者あとがきにも差別を許容する意図はなく、あくまで「大日本帝国」が再建されたという設定に基づく世界で生まれる民族による階層化、蔑視を描いたとの記載があったけれど、作者にその意図がないにしても、現在の日本で生きる、ルーツで差別を受けることのない側の日本人の一読者としては、加害者側の意識の持ち合わせがないか常に探られているような、強烈な風刺が含有されている物語のように感じ、落ち着かなさを終始噛み締めていた。ラストへの運びも、物語の設定上予想できたものだったにもかかわらず、そういう視点込みで読んでしまったせいか非常に衝撃的で、過度にしつこいとも思える旅の背景、そこで生きる人々の風景の描写は、読者にこの展開を「体験」させるためでもあったのではと思ってしまった。

 

本作の設定から、読者が日本とロシア間の領土問題を意識することは当然のことなのだろうけれど「日本の保護下」に置かれているサハリン島が舞台の物語がロシアの作家によって書かれ、その設定がロシアの読者にどのような印象を与えるのだろうということがとても気になってしまう。そしてその「日本」は欧米を抑えて世界で唯一の一大工業国となった、かつその再建の性質から他民族への差別が凄まじい野蛮な国である、という設定のSFがロシアで出版された、その物語が日本語に翻訳され、私はその本を手にとっている、という構造に、日本の一読者のわたしはくらくらしている。

 

じゃあなんで読み通したんだと問われれば、やっぱりこの物語が面白かったからに他ならない。興味本位でシレーニの一同行者を請け負ってしまった、一緒にサハリン島を歩き回る仲間のように、別に全然知りたくないと思っていた各地の刑務所の内部を見回るうちに、「ぶちのめされる」ある人々の光景を見るたびに、この「地獄」のような世界は「地獄」ではなく、むき出しの人間を煮詰めていった、未来の分岐点の先に確かに存在するもしもの世界では?という突き放せない距離まで近寄って眺めてしまう感覚。さながら本作に登場する、水とMOB感染者のような。

 

シレーニという主人公は、一見冷静な目で島に住む人々の言動を捉え、読者の目となる存在のように思えるけれど、その様子を野蛮なものと認識することはあっても、彼女自身がその構造について過度に批判的な意見を持つことはなく、改善を促すようなアドバイスをすることもない。それどころか「ぶちのめし」に未来学者として興味を覚えすらする。また、殺人を厭わない淡々とした様子、巧みな銃の扱いは「そういう世界だから」と読者を納得させる以上の印象を残す。

彼女はあくまで観察者で、「サハリン島」の外に生きる人間としての立場を崩さない。けれど同時に「サハリン島」という機能を持った島が存在する『サハリン島』の世界の住人であり、その世界を外から眺めることができるほどの超越した立場の人間ではない。

 

 

(承前)島はな、流刑地じゃなくて、蒸留器なんだ。放射線とか飢えとか病とか、それは単に触媒なんだ、成長の要なんだ。移行のためには、ある点が、きたるべき世の粒が必要なんだ。その周りに荒れ狂う明日という日が燃え上がる、そんな点だよ。そんな点をいったいどこで手に入れられる!?(p.258

 

チェーク(チェロヴェーク)という、ロシア語で「人間」を意味する名を持つ烈しい老人がシレーニと交わす会話には、この『サハリン島』という世界の構造を捉えるヒントになるようなエッセンスが含まれているように感じた。

 

また、ここまででは倫理観・道徳観の狭間でウロウロしながら構造を眺める話を主にしてしまったけれど、この物語を面白く感じたのは、一見筋道だったやり方で細やかに語ることによって、もしかしたら現実にあるのかもと思わせる設定、各地の刑務所の内部や人物造形を積み重ねることで生まれる一つの世界の作り込み方、「ない話」を「ある話」に見せかける魔術師か詐欺師か、という鮮やかなやり口に魅了されてしまったのもある。特に印象的だったのは、建築家チカマツによって設計された囚人たちの理性を奪う刑務所〈軽やかな空気〉、高校生のシレーニにその詩の素晴らしさを印象付けたシンカイシロウの設定。panpanyaクラフト・エヴィング商會の、語られることで現実との境界線が曖昧になる感覚に、そのある種の恐ろしさに魅了されている人には向くかもしれない。

 

その細やかな描写の合間に、民間伝承として語られるトイレのヒロコやシュノーケルが突如せり出て川を渡れる車etc. わかってやってるだろ!?というツッコミ不在のネタが入り込んでくる目の話せなさもあります。

 

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「私たちは宇宙に存在する孤独の総量をどんどん増やしていくだけなんじゃないのか」/キム・チョヨプ『わたしたちが光の速さで進めないなら』

「私たちは宇宙に存在する孤独の総量をどんどん増やしていくだけなんじゃないのか」/キム・チョヨプ『わたしたちが光の速さで進めないなら』

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 SFを読むときに求めているものについて考える。
 その少し未来の物語が、過去の誰かが思い描いた夢に支えられていること。夢の内訳。叶ったこと、叶わないこと。技術の発展だけではカバーしきれないもの。人間の欲求と愚かしさ。

 少し角度を変えて考える。

 科学技術が発展した少し先の未来はどんなものか。社会はどう変わるのか、「豊か」になるのか。そうだとしたら、その「豊かさ」を受け取れるのはどういう人か、「豊かさ」の有無は人々の生き方にどう関わってくるのか。「豊かさ」にはどんなバリエーションがあるのか。

 理想だけじゃ物足りなくて、現実だけじゃしょっぱすぎる。
キム・チョヨプ『わたしたちが光の速さで進めないなら』は、そんな両方の要素のバランスが心地よい作品が多くおさめられている短編集だった。

 

 表題作、『わたしたちが光の速さで進めないなら』は「遠い星へ出航する船を宇宙ステーションで待ち続ける老人」という、人によっては懐かしさでそわそわするような設定を軸に、主にその老人の語りに耳を傾ける、終盤まで正体が明かされない若者の視点で進行する物語だ。

 どこか馴染みのあるような設定。老人が聞き手の若者に語る、自分が研究者として活躍していた時代の話は、若者の視点では「昔」話でも、読者の私たちの時間軸からは、まだ見ぬ未来の話だ。彼女が生き生きと語る、人類が宇宙に見出す普遍的な夢の形に、その夢を手中にしたいという情熱に惹きつけられ、読者である私は、物語の時間軸の過去から照らされるときすでに「今」として固定されている未来が、彼女の望むようなものであるよう願ってしまう。
 同時に、人類が宇宙へ踏み出すという夢のあり方自体を、繰り返し語られてきた普遍的な願いととらえ、そこにかつて読んだことのあるSF作品や、現実の宇宙への展望を見出し、郷愁を覚える。
 
 その一方で気にかかるのは、過去の時間に一人取り残されたように生きる老人を、そこに取り残したものはなんなのか、ということ。老人ーーアンナによって語られる、彼女自身の選択と、時代が要請したもの、そして少数の個人を置き去りにする、政府が決定した政策のあり方に、私たちは「懐かしい」では片付けられない、現実の延長線上にある未来をそこに見出す。

 宇宙を旅するという人類の夢の実現のためにも、先立つものは必要不可欠という事実をこの物語は淡々と示してもいる。より経済的な手段が発見されることで、これまでの研究は古くて後進的なものになる。政府の「経済面」での選択は、アンナの研究予算を大幅にカットするだけでなく、彼女が家族の住む「遠い星」へ行く手段をも奪う。

 ある目的を遂げるための新たな技術が見出され、人類が大きく躍進するとき、時代遅れの技術は、その研究者は不要となってしまうのだろうか。
 時代に取り残された技術とともに、宇宙ステーションに取り残されたアンナ。夫と子どもがいる星へ出航する船を長い間待ち続ける、待つ、という行為にかってに切ないものを見出してしまいそうになるけれど、自分自身の研究成果を身を以て証明し続けることにすべてを注ぐ彼女の生き方は、もっと激しい「待つ」の能動性を訴えかけるものでもあるように感じる。

でも、わたしたちが光の速さで進めないのなら、同じ宇宙にいるということにいったい何の意味があるだろう?
p.156

 アンナの最後の選択は、それを許してしまった「若者」の脇の甘さは、物語としてある意味での予定調和だとは思うのだけど、同時になりふり構わない過激さも有していて、リアリティと飛躍のバランスに胸がすく。個人では動かしがたい状況が存在することをきちんと描きつつも、その状況下で生きる人間の出来うる限りの選択が描かれている物語に希望を見出す。

 若者から老人の語りで進む物語という形式自体が、すでにオールドスタイルでは?という見方もあるかなと思いつつ、作品に漂う懐かしさと物語の語り方に齟齬がないように感じること、また語り手が女性の研究者である、というところに既存の性役割分担への意識的な反転を見出し、個人的には好意的に解釈していた。気難し屋で孤独な老人(女性)が生き生きと描かれる作品に勇気付けられる、というのもある。

 

以下、他の短編についても簡単に記します。

 

「巡礼者たちはなぜ帰らない」
 収録1作目だったので「帰らない」理由がホラー寄りだったらどうしようと怯えながら読んだところ、「怖さ」がないとは言わないけど良い意味で裏切られた作品。
 村で生きる主人公の視点は読者の私たちとは異なる、その差異を読者に気づかせないように物語を進めるには、小説という方法が一番適しているのかもしれない。文字情報のみを表現手段とする小説の、作者が作品の情報をコントロールできる範囲について改めて考えた。
「○○(巡礼地)に残る理由は、たった一人で十分だったのよ」という言葉。主人公のデイジーが物語終盤に語る理想は青臭く、一人称の語りによる盛り上がりもあるのかもしれないけれど、設定の妙もあって、その理想の世界を信じてみたくなる。

 

スペクトラム
 そういうふうに生まれついたから、と種の連続性を見出すのではなく、個人の選択として、他者と一緒に生きようとする、個体のあり方の描き方に惹かれる物語。

 

「共生仮説」
 私たちの利他性の育まれ方についての話。忘れている懐かしい景色があるのかもしれない、という想像は、多くの人にひどく懐かしく慕わしい想いを抱かせる。

 

「感情の物性」

「もちろん、そうでしょうね。あなたはこのなかで生きたことがないから。だけどわたしはね、自分の憂鬱を手で撫でたり、手のひらにのせておくことができたらと思うの。それをひと口つまんで味わったり、ある硬さをもって触れられるようなものであってほしいの」p.188

インスタ映え」というフレーズが出てきたり、他の短編よりぐっと身近な、「未来」というには数年先、いやどこかの国ですでに発生しているような物語に思えた。自分の感情の拠り所のなさにうんざりして、上記のような台詞に近い感情を抱いた人は少なくないのではないだろうか。

 

「わたしのスペースヒーローについて」
 それまでの物語で膨らませた「宇宙」へ人類が到達するという「偉大」な目標への夢を、ある意味破壊してくれる、本短編集のために書き下ろされた作品ということだけれど、トリを飾るのにこれ以上ない作品では? 宇宙に到達することは手段であって目的ではない、ということ。当たり前かもしれないけれど、改めて示されるとハッとするし、しかし他の星から星への移動が描かれている作品も、よくよく考えたら同様の趣旨が当たり前に盛り込まれているんだなと気づいた。その先で何を成したいかということがあっての「遠くの宇宙空間へ到達する」という行為。そしてその「人類の共通の夢」を共有しなくてもいいという選択が鮮やかに描かれるということ。海へ飛び込む軌跡を見たいと思ってしまう。

 主人公のおばさんが宇宙飛行士に選抜される過程での性別・人種のクオータ制導入に対する非難や、様々な人の期待を背負った彼女がその期待を裏切った理由についての推察、おばさんを「ヒーロー」と慕う主人公のおばさんへの思いの変化、どの短編にも言えることだけれど「今」の要素を盛り込んだSFかつ、その要素を物語としてうまく生かした作品で、今こういう作品が読めることがとても嬉しい。

 

「館内紛失」
 この物語で描かれる「図書館」のイメージが面白くて、この設定だけで連作短編集ができそうだと思った。インデックス=請求記号分類のようなものと理解。「マインド」というデータの認識についての議論含めて、この設定を理解した読者向けに別主人公で短編を書いてほしい。
 と思ったのも、他の短編集の着地点を思えばこの物語もこういうところに落ち着くのはわかるのだけど、母と娘の関係性が描かれた作品という意味では予定調和すぎた感もあったので、他の設定主人公の話が読んでみたいと思ったから。「紙の図書」がキーアイテムとして登場するのもおもしろい要素なので、連作を安易に望むのは違うかもしれないけれど。数年後に読んだら、もしかすると違った印象を持つかもしれない。
 また、作中の「ジミンのお母さん」という言葉に(訳注:韓国では子を持つ親を、本人の名前ではなく○○〔子の名前〕のお母さん、またはお父さんと呼ぶことが多い)という注がついていて、これは日本語版で注が必要な箇所と訳者の方が判断されて…?それは日本の読者には通じないという前提で…?とショックを受けた。
 このショックの内訳は「日本では誰かの親になったとしても、個人を個人名で呼ぶという個人を尊重した習慣が根付いている国と思われているのかも」「あるいは大いなる皮肉か」「韓国はそういう理由の呼ばれ方にネガティブな意味がないのか」などです。

男の傍らの女たち / インゲ・シュテファン『才女の運命』

男の傍らの女たち / インゲ・シュテファン『才女の運命』

 

filmart.co.jp

 

 天才と賞賛されてきたさまざまな男性たちの影で才能を搾取されてきた女性たちの人生を掘り起こす本なのだけど、なんだか読んでいてひたすらに落ち込んでしまった……それぞれの人物毎に、文章量としては読みやすくコンパクトにまとめられているのだけど、ひとりひとりの女性の人生に降りかかってくる出来事の過酷さに、ひとり分読み終えるごとに何かを背負った気持ちに勝手になってしまった。もっと実際の記録を引いて細かく深く書いてほしいと思う部分もあるけど、本書で取り上げている「才女」の人数を考えると配分としてはこれくらいがいいのかもしれないし、才能ある女性たちの人生の一部を、大部分を、ある意味養分として成功の花を開かせた男性たちよりも、彼女らについて残されている記録が圧倒的に少ないから、ということもあるのかもしれない。

ケイト・ザンブレノの『ヒロインズ』がとても頭をよぎると思っていたら、訳者あとがきにまさに名前があげられていた。曖昧な書き方だったけれど、『ヒロインズ』の刊行が、本書が再販されるきっかけになったという意味だろうか。

 

 彼女たちの多くに共通する体験として、幼少期から才能ある父親に見出され寵愛(今の感覚からすれば虐待と紙一重な教育も含む)されていたため、母親より父親に執着心を抱き、それゆえにパートナーの男性にも父親に求めるものと似たものを求めることになる、というエピソードがあった。初めは父親と同じく女性たちの才能に惹かれていた男性たちが、結婚によって掌を返したように彼女らに才能を投げ捨てさせ、妻としての振る舞いを求めるようになるその皮肉。全員が全員、結婚当初から掌を返すわけではなく、もう初めから全然だめだろ!?という浮気男のトルストイのような事例もあれば、初めはかなり対等なパートナー関係を築いていたように思えたのに子どもが生まれた途端アインシュタインよお前もか、の事例もあって、天才男のパートナーに対する振る舞いフローチャートが作れそう。

 

 カミーユ・クローデルの章では、以前『GOLD』というカミーユ・クローデルが主人公のミュージカルを観たときに、ロダンにひたすらにムカついていたことを思い出した。主人公がカミーユだったのもあるけれど、自分の感じたむかつき度合いとして、ロダンを必要以上に偉大に書いて、カミーユを矮小化させる、という作品にはなっていなかった記憶がある(カミーユの新妻さんもロダンの石丸さんも素敵でした)。しかし本書を読んでから今見返したらどう思うかはわからないなとも思う。同じ分野の芸術家同士が愛し合い共に暮らすことは難しいと、性別により背負わされるものの差異ではない方向に読み解いていた記憶もある。

 また、カミーユはその作品が本書で紹介されている女性たちと比較すれば数多く残っていて、現代では光が当てられている芸術家だと思うので、本人の日記や手紙等の記録or作品が残っている、残っていないということはやはりとても大きいのではないだろうか。例えば公文書なら、他の部分がきちんと「ある」のに、その一部分が「ない」ということで浮かび上がることもあるだろうけれど、個人の記録でその大半がない、となると膨大な空白の前に立ち尽くし、思いを巡らせることしかできない場合も多いと想像する。

 

 また、クララ・ヴィーク=シューマンの章を読みながら、以前シューマン夫妻とブラームスが登場する宝塚歌劇の作品を映像で見たことを思い出した。クララもまた、父親に才能を見出され、虐待と紙一重の教育を受けた女性であること(本書を読んだだけだとモーツァルトのような英才教育だなと思った)、加えて、理想の関係を築いていたように認識していた彼女の夫であるローベルトとの理想的とは読み取れなさそうな数々のエピソードを知ると、才能ある故人(男性)を物語の中でより理想化して描くことの是非について考え込んでしまう。クララが才能がありながら家庭に縛られていること、家族に奉仕する立場であることの苦しさのようなものを一切排除した演出ではなかったけれど、宝塚歌劇の場合、作品内で比重のある役はどうしても魅力的に、クリーンな存在として描かれがちだ。観客もそこに夢を投影してしまうことが多い分、物語の都合上、脚色している部分が多いという前提であっても、これからの時代、本書で取り上げられている女性たちのパートナーのような男性を主役や、それに近い位置に据えて、真正面から描くことは難しいのではないかとも思った。

 

 ゼルダ・セイヤー=フィッツジェラルドの章では、ギャツビーですでに減退していたスコットの本を読みたいという気持ちがもうほとんど消え失せていきそうになった。ゼルダの手紙や日記の文章はとても好みで、彼女の作品を手に取りたくなったけど、スコットの本を読んでも、この文章を継ぎ接ぎしたものに出会えるのか家庭内盗作と思ってしまって複雑。

 

 読み終えた直後の頭の中に、才能ある女性が大成できなかったという事実への悔しさと「内助の功」を求める時代の男たちへの憎しみが渾然一体となってドロドロと渦巻いている。さすがに本書に書かれた時代の女性たちよりはマシになっている、なっていてくれと願いながら、「内助の功」でGoogleニュース検索したらその勢い衰えず、という状況でうわーっと叫び出したい。女性の活躍の場という意味では前進しつつある(?)ものの、後者を求める才能ある/ない男性はまだまだ絶滅しないことについて考えるとき、私の頭に浮かぶのは「外注」の2文字だけど、全てそういうわけにもいかないのだろう個別の様々な事情を思う

 取り上げられている女性たちが男性たちが大成するために行った奉仕の大きさを知ると、男女によらず、天才と称される人の傍らには、シャドウワークに徹する誰かがいて「天才」と呼ばれる人は、才能がただしく機能するための全体の構造の一部分、噴出口でしかないのでは、と思ってしまう。もちろんいろんな「天才」の形があるので一概には言えないのだけれど、誰かの圧倒的な負担の上に成り立つ才能を、その功績を圧倒的な負担を知ってなおありがたがれるのか、ということに思いを馳せた。