ウルリケ・オッティンガー ベルリン三部作『アル中女の肖像』

ウルリケ・オッティンガー ベルリン三部作『アル中女の肖像』を見た。

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見た目にふさわしい洗練された大人の振る舞いをし続ければ社会に丁重にもてなされる側の美しく装った彼女「アル中女」は、あらゆる場所で呑んだくれては、社会のつまはじき者扱いを受ける。けれど彼女をゆさぶるのは酒そのもの、あるいは飲酒ができるかできないか、それだけ。


「社会問題」「正確な統計」「良識」という役名を持つ女性3人が、彼女のいく先々で各種統計数値を引用しつつ女の飲酒にまつわる問題点を、彼女の飲酒のBGMのごとくひたすら語り合うため、ほぼ言葉を発しない「アル中女」が一人きりで/女同士でひたすら「酒を飲む」という行為がより異質なものとして浮かび上がる。


窓ガラスや鏡に水や酒をぶっかけてはそこを覗き込む「彼女」の表情に、他者の目に映る自分自身を確認するような意図を読み取ってしまうけれど、彼女が自らの行動の理由を深く語らないからこそ逆に好き勝手に意味を見出す観客側、彼女をまなざす側の固定観念を彼女に見透かされているような構図かもしれない。


過度のドレスアップも飲酒も、社会に女が望まれること/望まれないことのメタファー、という見方はあまりにも単純化しすぎだろうとは思うのだけど、バイナリーな性別役割の批判だけにはとどまらない魅力がある、社会で周縁化される人/物にも焦点を当てた作品。


もちろんただ映像を眺めているだけでも構図や配色がとても格好いいため、こんなふうに着飾って酒をぐいぐいあおってみたい、というストレートな欲望もかき立てられる。

また、現在多和田葉子を読むターンのため、三人の女性の役名や冒頭の地の文ナレーション(?)の淡々とした、けれどどこかユーモアを感じる言葉づかいに、多和田葉子作品でよく登場する、言葉を脱臼させる文章群に近いおもしろみを感じた。

メーサーロシュ・マールタ監督特集『ふたりの女、ひとつの宿命』『マリとユリ』

メーサーロシュ・マールタ監督特集『ふたりの女、ひとつの宿命』『マリとユリ』

 


ふたりの女、ひとつの宿命』だけ見逃す可能性が高く、しかし先の3本を見終えた段階でやはりどうしても見たい、と無理やりねじ込みスタンプラリー(架空)完了しました。結果として5本すべて鑑賞できてとてもよかった。

 


女と女のさまざまな関係を巡る作品の連続上映として2作の関連性を考えた際、「連帯」や「シスターフッド」等のフレーズがまったく頭をよぎらないわけではないものの、見終わった後、その言葉と一緒に誰かにすすめることをためらうような、不穏な要素の詰まった2作だった。(「連帯」や「シスターフッド」を描いた作品が常に不穏な要素とは無縁と考えているわけではない)

 


『ナイン・マンス』のユリは、彼女を従わせようとするものと独りで戦っているが、『マリとユリ』のユリにはマリがおり、世代差のある女と女の親密な関係性を関連要素として掲げれば『アダプション/ある母と娘の記録』と『マリとユリ』2作品を線で結びたくもなる。

(ここでは「親密な」と書いたけれど、同性間の強い感情、「惹かれ」に類するものを指して「名づけられない」等の表現を連呼することで、両者の関係をわざと誤認する、ヘテロセクシズムに立脚した考え方に絡めとられる可能性があること、またパンフレットの解説でも触れられている通り、法的な関係を結んだ男女の関係性に比べて同性間の関係性がもろいものとして扱われがちな背景も理解しつつ、それぞれの異性パートナーへの強い「惹かれ」が描かれている作品で、どの程度まで分け入って同性間のそれを強く読み取っていいか、私の読解力と表現力が追い付いていないところがある)

また、『アダプション/ある母と娘の記録』と『ふたりの女、ひとつの宿命』は「血のつながらない子どもを引きとり、養子にする」という要素を拾い出せば線で結べるかもしれないが、カタとスィルヴィアが子を持ちたいと考える理由や選択した手段はそれぞれ大きく異なる。一見似た要素を繰り返し用いながら、それぞれの登場人物はそれぞれの事情に基づき彼女らの人生を歩んでいく、あるテーマが繰り返し描かれることや、それを目撃する意義を感じる。

 


メーサーロシュ・マールタ監督の作品は、これからどうなってしまうんだろうと思わせるような場面で物語を終えることによって、描かれた人物たちの人生がそのあとも続いていくことを観客に自然と想像させるものが多い。

もちろんそういったタイプの作品は数多く存在するが、私自身が「めでたしめでたし」よりこちらに強く惹かれる理由として、観客への物語のゆだね方や、AかもしれないしBかもしれない、という選択肢が開示されている状況の描き方に誠実さを感じるタイプだから、ということがあげられる(「めでたしめでたし」と言い切るタイプの誠実さ、責任のとり方もある)。

 


5作品、それぞれの困難を生きている女性たち(ときに男性たちも)のさまざまなケースを物語ごと自分のなかに引き込むことによって、自分が生きられる以外の人生をより多く知りたいし考えたい。

 

 

 

ふたりの女、ひとつの宿命』

ある日、不妊に悩む裕福な女ともだちから、生活や夢のための資金提供と引き換えに代理出産(子どもを引き渡す前提での彼女の夫との性交および妊娠・出産)を持ちかけられたら…?という、『ナイン・マンス』鑑賞後、主人公のユリを演じるモノリ・リリのファンになった人間が見ると(男の思うままにならない女が今度は友人の人生まで振り回し始めたぞ?!)とはらはらしてしまう作品。

 


イザベル・ユペール演じるユダヤ人のイレーンが主人公の物語として、イレーンとスィルヴィアの身分、置かれている環境を対比して、また客観的にシチュエーションを考えた際にスィルヴィアが持ち掛けた取り引きの不均衡さとして、通常はイレーンやスィルヴィアの夫・アーコシュ側こそが被害者であるという見方がまっとうであり、スィルヴィアの後半の行動に嫌悪感をもよおす観客も少なくはないとは思うのだけれど、この物語を行方を追い続けているなかで(加害者であると同時に、このように苦しむスィルヴィアもまた被害者ではないか?)という考えが浮かぶ人もまた少数派とは言えないのではないだろうか。

ではなにがスィルヴィアを苦しめるのか、と想像した際、表面上はイレーンと自分の夫が関係を持つこと(2者間の愛情の発覚以前も)、自分自身が妊娠・出産可能な身体ではないことを妊娠・出産可能なイレーンのそばにいることによって思い知らされ続けること、のように見えるが、スィルヴィアと父との遺言状に関するやり取りからは、この父の血を引く子を自らが生まねばならない、「財産の相続」という観点からの彼女へのプレッシャーもまた見えてくる。スィルヴィアの父は彼女を深く愛しているように見えるし実際その事実は確かなものだろうけれど、その愛には「家を存続させるための子孫繁栄」の成立が必要不可欠なのではないだろうか。「(娘が子を産むことを)確信している」と言い切る父の言葉は、子を持ちたいはずの娘に不穏な思いを抱かせたくない、という親の思いやりとも、自分の愛する娘が子を持てないような健康状態であるはずがない、という何の根拠もない思い込みともとれ、そこにはパターナリズムが透けて見える。スィルヴィアがその父からの「期待」を受けてどう行動したかを考えれば、父の遺言状によるプレッシャーかもたらした「効果」は彼女の人生にとって非常に大きい影をもたらすものだっただろう。(スィルヴィアの夫は、子の有無が彼女への愛情に影響するわけがない、と一笑に伏してはいたが、はたして)

スィルヴィアが、夫・アーコシュから彼の同級生へ「義姉」と紹介されるエピソードは、彼女に大きな動揺を与える一要因であったことに違いはないけれど、それ以前、イレーンの出産時期が近づくにつれ様子がおかしくなっていく彼女の不安の発生源は、単に夫がイレーンとの距離を縮めている、という事実を明確に感じ取っていることだけに由来するものではないようにも見える。全裸でイレーンの部屋の前に横わりあえぐ場面の痛々しさ。

また、今にも子が産まれそうな状態でいきんでいるイレーンと同時刻に、自らも子を腹から産み出すかの如く別室であえぐ、すべてのものへの憤りがごっちゃになって切り分けかねるという様子のスィルヴィアの、こんなの無理よ!という叫びは、自分がまいた種では?と彼女に追い打ちをかけることを躊躇させる悲痛さがあった。自ら懇願し、達成されたことであってもこの状況が耐えがたいと感じてしまう、ひとりの妊娠可能な身体を持ち得る可能性があった人のある種グロテスクな思いを、私は理解できなくはないものとして想像してしまった。(産まれる子どもとの同化では?という考察を読んで、そうした捉え方もあるのかとはっとした)

 


スィルヴィアの代理出産の持ち掛けがなければ、イレーンとの友情は続いていたのだろうか?というどうしようもない問いかけと同時に、彼女らの立場の違い、この時代、序盤から響いていた軍靴の足音を改めて思い返す。二人が顔を合わせていがみ合うようなわかりやすい光景は記憶からすっぽり抜け落ちているのなければ一場面もない、あるいはほとんどなかったはず。彼女らの対立は常にアーコシュを介してのもので、二人が同じ画面に映る場面で印象に残っているのは、並んで監賞したり、スィルヴィアのベッドに並んで横たわり歓談する姿、ピアノを弾くイレーンの歌の歌詞に自らの先行きを重ねてか涙をこぼすスィルヴィアや、二人で身づくろいをし、そろいの格好で皆の前に笑って登場する(ここはかなりピリピリした空気を感じるが…)、雪景色の中をはしゃいでそりに乗る親密な姿だ。そこに常にお互いへの好意ばかりがあったわけではないことは確かだろうけれど、彼女らそれぞれの選択を尊重しつつ、彼女らを別ったものは彼女らの意思だけなのか、とも考える。妊娠可能性を常に問われる人間の人生に、当人が望むとも大きく横たわる存在。産む・産まない・産めない、について、その可能性を持つ人たちが他者から問われなくてよくなる日は来るのだろうか。時代背景や社会規範、立場や身分等の複合要素を加味して読み解く必要がある作品ではあるけれど、個人的に一番気になるテーマを優先して考えてしまった。

 


他の4 作品に登場する女性たちはいずれも、そこまで裕福とはいえずとも自らの労働で賃金を稼ぎ、生活をするタイプがほとんどだったため、他作品にも登場し、特に『ナイン・マンス』で手に職を持ち自らの人生を切りひらく印象が強かったモノリ・リリが、相続したお金で女ともだちの頬を叩くような(イメージ)役を演じるのか、という驚きがあったけれど、見ているうちに、このなんとしても自分の意思を押し通し行動しようとする強情さは彼女の演じる役の持つ特性としてふさわしい、と思うようになった。

と、いうほどモノリ・リリという俳優のことを知っているわけではないのだが、変な肩入れの仕方をしてしまう魅力が彼女にあることは、映画を見た方にはわかると思う。

 


そんなモノリ・リリへの思い入れにより、スィルヴィアの視点から物語を追ってしまったが、一見激しい感情表現に乏しいように思えて、迷いながらも淡々と自分の決めた道を歩む強情な人物像という他作品との共通点において、同監督の映画の主人公にイレーンのようなタイプが据えられたのも合点がいく。(もしかしたらモノリ・リリは主人公に一番近い役どころに据えた方が輝くのか?という考えが頭を掠めた)

本作のメインビジュアルのひとつにもなっている、花がいけられた花瓶の前に立つイレーンの姿は、スィルヴィアの夫・アーコシュから受け取った花を切り落とす場面として描かれており、数々の場面の中で絵として切り取られるのも納得の、印象的な場面だった。

そんな彼女はアーコシュと引き裂かれることを拒み、国内に留まる選択を取ったがために、最終的に矢十字党に連行されていく。

 


あらすじを読み、いったいどうやってイレーンはスィルヴィアの無茶な相談に頷くのだろうと思っていたけれど、断り続ける描写が長く続くわりに、決定的な瞬間は描かれずに人の感情が移り変わり、重要な決断がなされている、という描き方をする監督であることは『ナイン・マンス』や他作品でも予習済みであったことに加え、むしろそのような大きな決断をする人間の心の動きを言葉や行動でわかりやすく描こうとしないこと自体に好感を持った。

 


映像としては、1930年代のハンガリーの富裕層の生活がメインに描かれるため、スィルヴィアの屋敷の内装や調度品、スィルヴィアやイレーンのドレスアップした姿等、画面が非常に華やかで、しかし時代背景もあってか、影のとり方により光が当たった部分がよりくっきり印象づくような、明暗を強く意識する場面が多かったように思う。

銀のケーキスタンドに盛られた焼菓子の数々が目に楽しい冒頭の場面や、雪山のホテルまで馬の引くそりで向かう、真っ白のコートを身にまとったスィルヴィアとイレーン、それぞれの姿もまた目に焼き付いている。父の葬式後のスィルヴィアとアーコシュがほぼ裸の状態で転がるりんごと共に床に横たわっているカットも印象的だった。

 

 

 

『マリとユリ』

工場の寮の管理者であるマリと、工場で働きながら寮のルールを逸脱した行動をとるユリ。夫のもとに置いておけない子を連れて寮で暮らそうとするユリを自分の部屋にルームメイトとして引き入れたマリは、次第にお互いの夫婦関係について語り合い、困難を共有し、それぞれの人生に深く立ち入るようになる。ふたりの女性と、彼女の夫たちそれぞれの決断とは。

直前に見た『ふたりの女、ひとつの宿命』が、人間の生死が関わってくるという意味で救いようがない重さだったため、だからといって本作が「明るい」わけではない、ないのだけれど、世代差も価値観の隔たりもある二人の女性が、お互いの生き方に干渉しあい、理解のできない部分は突き放す、しかしその理解できなさに憧憬の念を抱くいっときもある、といった描かれ方が、個人的に、ひとつの理想の関係を描いたものにも思え、折にふれてこの光景を思い出すだろうと感じる瞬間がいくつもあった。ほかの4作だったら表情を丹念に映すだけにとどめるだろうな、と思う場面で、比較的登場人物を饒舌にさせる傾向も感じ取り、総合的な見やすさとしては『マリとユリ』が一番おすすめしやすい気がする。

そして見た順番のせいで『ナイン・マンス』『ふたりの女、ひとつの宿命』のヤーノシュとユリが転生してまた問題のある夫婦をやっているけど今度こそうまくいくのか?!とはらはらしつつも面白くなってしまう瞬間もあった。

『ナイン・マンス』のヤーノシュは情状酌量の余地がほぼない、マチズモの権化だったため(あれも愛すべきダメ男の範囲と判断する人もいるかもしれないが)

『マリとユリ』のヤーノシュは、酒が悪さしていなければしらふのときはかなりかわいげがある男性として描かれており、ユリが何度もほだされたのもわかる絶妙なさじ加減だった。

彼が登場する作品を3作見て、どの違ったタイプもそういう人だろうな、思わせる演技に、モノリ・リリとはまた違う、役者としての魅力を実感した。

また、こちらのユリとヤーノシュは力関係がだいぶ異なり、それが現れている場面の一つがマリと同室の寮の部屋で、ユリの方から積極的に性交を求めるシーンだ。ヤーノシュの方が、この場所ではやめておいたほうが?とその欲求を言葉で一旦落ち着かせようとする(始まる前の夫婦の茶番なのかもしれないけれど、そこにもまた彼の落ち着きとかわいげが見える)という光景がとても印象的だった。

 


そんなユリ・ヤーノシュ夫婦のことも非常に気になりつつ、本作を見ていると、酒を飲みかわして夫の愚痴をとことん聞くよとマリに言いたくなる。マリの夫は、彼女が寮の管理者を勤めるために離れて暮らすことをよく思っておらず、いつ家に戻るかを帰宅するたびにそれが当然だという口ぶりで問いただす上、基本的に、おまえは妻として母としての務めを果たしていないという態度をとる。

 


しかしこんな夫であってもなんとか関係性をよりよいものにしたいと悩むマリは、壁一枚を挟んだユリとヤーノシュのセックスに動揺し、のちに言い訳と共にマリの性生活にまで口を挟むユリに怒りながらも、ユリの姿をなぞるように、訪ねてくる夫の言葉をキスで遮りセックスに誘う。けれど夫はことを終えた後、すぐにベッドの上で壁側を向いて寝る姿勢をとり、マリは床の上にスリップ一枚で転がったまま、虚空を見つめる。この場面がなんというか(体験したことはないが)めちゃくちゃに「リアル」で、本映画におけるたくさんの「マリ?今夜空いてる?飲みに行こ??」場面の内のひとつだった。

 


マリは工事の寮の管理者としての責任も果たしつつ、ルールはルールでありそこで生きている人に合わせて柔軟に対応すべきだ、この場所で暮らす人々に住み心地の良い場所を提供すべきという考えを持つ、ひとつの部署のトップ(課長程度を想定)としてかなり信頼に足る人物として描かれており、もっとルールを厳しくすべき、甘すぎると彼女に苦言を呈する同僚とも信念をもってやり合う。正直同性が多い職場で働く人間から見てもかなり魅力的な人物で、だからこそ彼女の夫の態度は彼女にとって望ましくなく、腹立たしいものとして目に映る。

けれど夫につき従うような生き方はできない、そういう女ではない、と吐露するマリと、懇親会に夫が来ない事実を嘆いて泥酔するマリは同人物で、相いれない相手を好きになってしまい、互いの主張を受け入れさせようと(精神的に)取っ組み合いのけんかをするという意味で『ナイン・マン』のユリとヤーノシュを思い出したりもした。オムレツのせ鉄フライパン窓の外ぶん投げ騒動からのマリの、口元を押さえて自分のしでかしたことに呆然としている表情からも、彼女がいかにこれまで夫とうまくやろうと努力し、穏やかに接してきたか人かが伝わって、見ていてやるせなくなる一場面だった。(マリ?飲みに行く?)

 


そんなマリとユリが夫との関係についてじっくり言葉を交わす場面や、突然マリが浴びているシャワーにユリが乱入してくる場面は、この映画において非常に貴重な、見ていて安らぎをもたらす場面でもあるのだけれど、そんな女と女の関わり合いはもちろん、この映画ではユリの夫・ヤーノシュとマリ、マリの夫とユリ、それぞれが話している場面もまた、とても興味深い存在感を放っている。

 


最後の場面以外の、マリと話しているヤーノシュは、基本的にきちんと理性を持ち、ユーモアもあるチャーミングな男性として描かれており、特にユリとヤーノシュの家を訪ねたマリが、ユリの帰宅を待つ間、ヤーノシュとパーリンカを飲みながら(ヤーノシュは酒以外の飲み物を飲みつつ)語り合い、ヤーノシュが詩の朝読をユリに聞かせる様子は、友人の夫と妻の友人という関係性を飛び越えた、彼女と彼の間にもまた友情ははぐくまれつつあるのでは?と思わせる、とても心に残る一場面だった。

(一瞬恋愛の「惹かれ」に近い妙な空気が発生し出したことにひやりとしたけれど、それをお互いに察してユリの帰宅を待たずに帰り支度をするマリ、彼女をぎこちなく促し見送るヤーノシュという流れも、お互いの関係を壊さないための温かみのあるやりとりとしてとてもよかった)

そんなヤーノシュとマリ、二人が築いてきた確かな関係性があったからこそ、アルコール依存症治療のための施設でのヤーノシュのマリへの態度がこれまでの彼のチャーミングさを帳消しにするようなひどいものであったことが、ただただ痛ましくてならなかった。

これを最後の場面にもってくることで、マリ自身が、これまでヤーノシュがユリにどのような態度をとってきたかをきちんと理解していないまま二人の復縁を促していたのかもしれない、と思い知らされるきっかけとしても作用するであろうことが、映画としてうまいし、きつい。ユリの娘の嘘つき!の連呼もまた胸に突き刺さる。

ヤーノシュがアルコール依存症の診断書を自ら持参してユリに施設への入所を決断したことを告白する場面では、『ナイン・マンス』や他の作品のメーサーロシュ・マールタ監督作品の中で描かれたものとはまったく異なる男性像が描かれようとしているのかもしれない、ととても驚き、同時に嬉しさを感じたけれど、そんなにうまくことは運びはしない、一筋縄ではいかない展開が同監督作品のおもしろさでもあり、また見ていて苦しいところでもあると思う。

施設でのヤーノシュのユリへの暴言は、明らかにマチズモを手放せていない男性の言葉で、それとアルコール依存症との結びつきは必ずしもあるわけではないと思うのだけれど、治療の苦しみが引き金となって他者と対峙する余裕をまったく持てなくなったときに、その人の一番弱い部分を目の前の甘えられる人にさらしてしまう、ということは起こり得るのだろうな、と想像した。(依存症について深い知識があるわけではない立場から憶測でものを言うことは難しいため、この映画の中での描写に限っての想像です)

ヤーノシュの「俺は一度も愛されていない」がマリの夫への考えと呼応するとき、この物語のなかではヤーノシュという人物もまた救いようのない、突き放した存在としては描かれていないようにも見える。自らの弱さを認め、それを開示する強さを掴んだように思えた人間もまた、その強さを維持することは難しく、開示の方法を誤ることもある。誤りを目撃させられた人間がいかにその人と対峙し続けるか、それをやりたいと思うかはまた別だけれど。

 


ヤーノシュとマリのやり取りとは対照的な、マリの夫とユリの会話では、ユリがマリの夫にモンゴルに行くときのアドバイスをあげる!と軽口を叩くときの相手を確実に小馬鹿にした伏し目がちの表情がとても魅力的だった。

メーサーロシュ・マールタ監督特集『アダプション/ある母と娘の記録』『ナイン・マンス』

メーサーロシュ・マールタ監督特集『アダプション/ある母と娘の記録』『ナイン・マンス』を見た。

 

2作とも、婚姻関係にある男女のみが子どもを持つべきと考えている男たちと、子どもを持つうえで婚姻関係は必須ではないと考えている女たちのすれ違いの描写が、物語の主軸であったり通奏低音として流れるような作品だった。恋愛関係にある男女間の不均衡さを生々しく切り取った映像に監督の社会に向ける眼差しや強い意志を感じると共に、養育する子どもとの血縁関係は必ずしも最重要視するものではないという価値観も個人的にはとても望ましい要素と捉えている。

1970年代のハンガリーの社会の様子について詳しい知識はないものの、思い通りにならないタフな女たちの言動に時に嘆き、時に激しく憤る男たちの姿は、50年以上の時間も土地も大きく隔てた国・社会に生きる自分にとって、苦々しくもどこか馴染みのある光景として映る。けれど同時に、そんな男たちと対峙し、悩みを抱えつつも自らの人生を切り拓いていく女たちの姿は、いまだ彼女らと近しい課題を抱え、しかし彼女らほどには自分の意思を貫き通すことが様々な条件から難しい立場から見つめたとき、むしろある意味で新鮮で眩しく、好ましいものとして目に焼きついた。

その先にある未達成の社会を提示するような作品に蒙を啓かれる体験も必要だけれど、このような困難がここにある、と描く作品もまだまだ必要な段階に私たちは生きている。

以下はそれぞれの作品の感想。

 


『アダプション/ある母と娘の記録』

子どもを持ちたいけれど、不倫相手からの同意が取れないカタと、親との関係が決裂し、寄宿学校で暮らすアンナ。母と娘ほどの年齢差があり、血縁関係にない女性二人の距離感。カタはアンナに部屋を提供し、彼女の結婚のために奔走するけれど、一方でアンナがカタの心の支えにもなっており、互いが互いを必要とする関係を築いていることがわかる。

レストランでの、男たちのあからさまに性的なニュアンスを含む視線や誘いをぴしゃりと跳ね除け、身を寄せ合って楽しげに囁きあい煙草を吸う、自分たちだけの安全な世界を形成しているような仲睦まじい2人の姿は、映画内で一二を争う素晴らしい場面。かといって継続した関係を持つかは不明、いっときだけ助け合い、その後はそれぞれの道を行く二人のなんともとれるようでとれない、「疑似母子」のたとえを拒むような不思議な結びつき。好き合う男の妻として結婚し暮らすことを望むアンナが、カタとの養子縁組を頑なに拒み、法的に約束された関係を締結しないからこそ得られた関係だったとも思う。必要な時期だけ強く結びつき、今は縁遠くなった誰かとの記憶もなかったことにしなくてもいい、そんな考えも浮かんだ。

アンナが突然壁に向かって笑い出した理由や、そんな彼女の頬をカタが突然叩いた理由も明示はされず、観客は彼女らの様子から推し量るしかない。基本的にその時々のお互いへの心情を二人は言葉でほとんど語らず、レストランでの様子や、カタの頬を伝う涙をぬぐうアンナの手つき、そういった身体的接触が、二人の心理的親密さを私たちに想像させる。

役名のある人びとだけでなく、寄宿学校に住む子どもたちや工場で働く人びとの表情を時間をかけて映し出す場面が数回あり、カメラに視線を合わせたり外したりと思い思いの表情で映り込む、ひとりひとりの眼差しの強さにも目を奪われた。いずれも映画の中で詳細には描かれない人びとの来し方行く先に思いを馳せてしまうような忘れがたい光景だった。


寄宿学校と字幕には出ていたけれど、子どもたちの様子や描かれ方を見るに、なんらかの理由で親を失った、あるいは親と離れて暮らす必要がある子どもたちの児童養護施設に近い印象を受ける。

ハンガリーではこんな昔から独り身でも養子縁組は可能なのだな、ということに驚き改めて調べたところ、2020年に同性カップルおよび独身者の養子縁組を禁止する法案が可決していた。独身者の養子縁組が認められるケースもあるようだが、いずれにせよ、時代と逆行した人権後退の憲法改悪には違いない。日本に生きる人間としては自国を第一に省みるべき立場であり、他国の状況に驚くことすら憚られるような有様であることは言うまでもないのだけど。

 


ハンガリー議会、同性カップルの養子縁組を禁止する法案を可決

https://www.bbc.com/japanese/55327967

 

最後のパーティーでのアンナのパートナーとの行き違いの様子や、養子に迎えた小さな子を腕に抱えて家路を急いでバスへ駆け寄るカタの足取りに、隣でハンドルを握る運転手の様子を助手席から息をひそめて見つめているかのような、他人事ではない感覚と危なっかしさを覚えた。映画の余韻としては全てがうまく収まりハッピーエンド、という結末ではない方が好みではあるけれと、この映画においては彼女らのこれからを案じずにはいられない。

これは絶対に書いておきたいけど、待ち合わせをすっぽかした挙句嘘をついたり逆切れして家族に会わせたり、そうかと思えば家まで追っかけてきてこのタイミングかよ?というタイミングで求めてくるヨーシュカ(カタの不倫相手)最悪だったな!

 

 

 

『ナイン・マンス』

同日に続けて見たため、1975年『アダプション/ある母と娘の記録』は白黒、翌年発表のこちらはカラーという映像の切り替わりに驚いた。

 

工場で働きながら通信で大学に通う、将来のビジョンがはっきりと手中にあるような自立したユリの、パートナー男性・ヤーノシュへの序盤からのきっぱりとした態度が非常に印象的。出会ってほとんど日を置かずに彼女を口説き落とそうとする男を断り続ける彼女がなぜ絆されてしまったのか、ユリがヤーノシュを好きだと思うにいたるタイミングがわかるようでわからず、急速に距離が縮まる二人の様子に(これが恋愛巧者のやり口か?)と呆然としてしまった。

もう初めからハラッサーの気配しかしない、絶対にやめたほうがいい男相手になぜ、という思いは上映中ずっと付きまとっていたけれど、自分の意思を伝えつつ相手に無理強いはしない、相手の意思も確認するけれど無茶な願いは絶対に聞き入れない、強固な意志に裏打ちされたスリリングな駆け引きこそが人間関係を形成するうえでの大前提と捉えているのだとしたら、初めからあまりにも「違う」人間同士のチャレンジングな関係にも突き進んでいけるのかもしれない。

 

けれどそう考えているのはユリの側ばかり、言葉で知り合うよりもフィジカルな接触のほうが優先されてしまったからこそ、後からであっても話し合って、お互いをゆっくり知りあうべきだと考えている彼女と、それは必要ない行為と捉えている男とのずれは、予感だけではない、現実のものとして明らかになっていく。ヤーノシュにとって自分の意思を伝えるということは「合意」を取る前の相手への意思確認手段ではなく、ただそれを実行しろ、俺に従え、という要求でしかない。

ユリにすでに別の相手との子どもがいるとわかって動揺し、泥酔してベッドに倒れこむ、前後不覚状態のヤーノシュと、手慣れた手つきで彼をバスルームで世話する養護者のような態度のユリの姿は、既に対等でないふたりの関係をはっきりと示す場面のひとつにも見える。未熟さと成熟、という二項対立で人間を評価する危うさを知りつつも、ヤーノシュにとって「大黒柱として生きる」というのはいったいどういうことなのだろうか。(「大黒柱」という訳に古めかしさを感じつつ、時代設定を思うと「あり」なのだろうか?「家長」的な意味合いも含みますか?)子どもの父親でもある以前のパートナーの大学教授の洗練された振る舞い(とはいっても別の家庭を持ちユリと結婚する気はない)と見比べると、ヤーノシュの言動はあまりにも「マチズモの権化」に映る。

 

完成途中の家の中、ヤーノシュの家族の面前で、自分には5歳の息子がいるとはっきりと伝えるユリの態度は、大学の口頭試問や工場の懲罰委員の前でいま問われている内容について淡々と答える際と何ら変わらない。パートナーの母から罵られても、恥じることは何もないと堂々とした姿のユリは、ヤーノシュから絶縁を言い渡された最後の最後にふいに涙をこぼす。初めから惹かれ合うべきではなかった二人かもしれないけれど、やっぱりあまりにも酷いヤーノシュのやり口はユリに「出会えるといいわね、ずっと家にいて子どもを産むだけの、奴隷みたいなひとに」という台詞を引き出すに十分なものだと思うし、あの言葉が彼にとって呪いになってほしい。


当時批判が集まったというユリの出産映像(モノリ・リリが実際に妊娠し、出産する様子)はいったいどういう順番でこの映画が撮られたのか?!(役柄が決まってから妊娠が発覚したとパンフレットに書いてありました)という方に意識がいってしまったけれど、出産という行為自体、もうあまりにも大変すぎる、すべての妊婦と生まれてくる子どもの安全を祈るしかないというある種画一的な感想しかひねりだせない。ただ圧倒されてしまう。

命をかけなくていい側はせめて立ち合い出産でこの状況を知っておくことぐらいはやるべき、とひとりで産んでいる人の映画を見た感想として適当でないことを考えてしまったが、そんな過酷な状況にただひとりで臨むユリの姿に、思わず映画の向こう側の「現実」にこちらが引っ張り込まれてしまいそうになるほどの衝撃を受けた。「凄み」を感じこそすれ、この出産という行為を美化したくない、という気持ちは、個人的にはその行為者への敬意あってのものだ。

 


主人公ユリを演じるモノリ・リリの、ふっくらとした子どものような頬とずっと何かを拒絶している目つき、強情そうにゆがむ口元のアンバランスさがとても魅力的で、個人的にデコちゃん(高峰秀子)と近しいものを感じていた。肝の据わった役柄が似合うところも似ている。

 


『ユリとマリ』でも同役名を同じ役者が演じる (なんならバートナー男性役も同じ人(!)だと知って、こちらも見るのが楽しみです。

 

「あたし、年取らないことに決めてますから」/小津安二郎監督「東京物語」

「あたし、年取らないことに決めてますから」/小津安二郎監督「東京物語

 


  ひとつの家族が畳まれてゆく姿を通して、戦後の時代の終焉に向かう価値観が示された映画と思って見た。

 自分もこのように親に期待されているのだとしたら苦しいが、期待に応えたい気持ちが捨てきれないという苦しさもまた存在するな…と、これまでの人生ですでに出会った/これから出会うであろうシチュエーションに辛くなりつつも、この時代にすでに血縁家族の息苦しさを描いた映画が作られていたのだということに救われた気にもなった。

 物語終盤の義理の姉・紀子から妹・京子への言葉で明確に語られているように、歳を重ねればそれぞれの生活ができ、家族はバラバラになる、という事実がそういうものとして淡々と描かれている映画だと認識しているけれど、親子の絆も寂しいものね、それに引き換え義理の娘の原節子のやさしさといったら…(感動)といった見方をする人もいるのだろうなと思う。親のような年齢の人たちに自分たちの人生はよいものだったと思って生きて欲しい気持ちはあって、それはきれいごとではなく、自分たちが同じくらいの年齢になったときに人生をよいものだと思いたいからというのと繋がっている。でもそこに子どもに対する過剰な期待、その子どもの人生の成功込みで自分たちの人生のよしあしを決めて欲しくない気持ちもある。

 これを若い頃に面白く見ていた人は自分が親の立場になったらどういう視点で見るのだろう、そして自分もまた歳を重ねてから見返したら視点は変わるのだろうか、と思うような映画でもあった。


 血のつながった子から親への孝行が気持ちがゼロではないけれど形骸的なものとして描かれるなかで、戦死した次男の妻の原節子が徹底的に「わきまえた良い嫁」として振る舞う姿を、義理の父が「こんなに良くしてくれるのは他人のあんただけ」と口にする終盤の場面がとても象徴的で、亡くなった次男の妻という血の繋がりのない彼女がいるからこそ、血縁関係にあるひとつの家族が解体されて、また別の小さな家族が作られてゆくさまがくっきりするように見えた。

 途中まで「嫁」が義理の親を喜ばせようと甲斐甲斐しくケアする姿を美しいものとして描かれることへのしんどさが先に立っていたけれど、ケアを担わされる側の原節子の亡くした夫への想いを通じて家族の縁に対する感情が発露される場面で、彼女もまた義理の関係であっても家族が解体されることに心細さを覚えるひとりだったのだろうかと気づかされ、物語の受け取り方が少し変化した。戦後の誰もが家族の誰かを失っている状況、かつ女がひとりで暮らしてゆくことが困難なことが想像される時代において、一人で生きてゆくよりも、義理の親であっても誰かと結びついていたいという切実性は、現代を生きる私が思っている以上に強いものとして存在するかもしれないという想像。義母への「あたし、年取らないことに決めてますから」という台詞は、耳にした直後はギョッとしたけど、歳を重ねないと決意することで亡き夫のことを忘れないように生きる、イコール義父母である人たちとの関係を切らずに家族の絆に縛られていたいという意味にとってよかったのか。

 義父への「あたし、ずるいんです」という告白は、世話を焼かれる方もまたその厚意を受け取る心構えが必要になるとは思うけれど、そうは言ってもこの場面で原節子演じる紀子がずるいと思う人っているのだろうか? ひとつの家族が役目を終え、解体されゆく過程で、息子や娘側に属する存在のうち、彼女だけがその事実を強烈に意識して時の流れに逆行して振る舞うのは、彼女ひとりの思いでどうにもならない状況がそこにあるからではないだろうか?

 夫を亡くした後に「誰かいい人がいたら…」という言葉を、親切心から出たものであっても義理の親からしつこくかけられることは、当人にとって「いい人」の要不要を問わずつらいだろうけれど、この作品では、この時代に女ひとりで生きていることをはつらつと肯定的に描くよりも、その違和感を感じている女性を描くことで、確かに存在するであろうつらさを可視化させるほうをとったのではないか、と考えている。

 


 上記理由を想像していったん納得しつつも、やはり原節子の甲斐甲斐しさは、義母の危篤の知らせに駆けつける際、喪服を持ってこないという選択含め、あまりにも実在を疑う「嫁」ぶりなんですよ。かつ感情を吐露する場面も相手が受け止められるタイミングばっちりアンド受け止められる範囲のものにわたしには見えてしまい、こりゃやっぱり都合が良すぎでは〜?と大きくのけぞったとき、本当は次男は存在せず、紀子は家族の絆を求めてまったく縁のない家にするりと溶け込み棲みつく系妖怪なのでは?という妄想がポンと浮かんだ。

「あたし、年取らないことに決めてますから」ってそういうことだったのか…?(違います)あるいは「あのときあなたに助けてもらった鶴です」みたいな原節子…そういう、温度は低いが湿度は高いような印象を受けた。

 紀子側の親族の描写がないことも、亡き夫を通して義理の親、親族らとの対比を際立たせるためだと想像はつくけれど、原節子の浮世離れした様子から、もはやそれすらも親族の不在を連想させるためなのかどうかわからなくなる。彼女は初めから成人した紀子という存在としてひとりでぽこんとこの世に送り出されたのでは?とすら推測してしまうようなよるべなさがある。


 義父母へのかいがいしさは基本的にとても節度を保ったものなのに、義母に小遣いを渡す際の掌にねじ込んで上から掌を重ねるというボディタッチ(??)とダメ押しの伏目がちなほほ笑みの威力がすさまじいし、ラストシーン間際の義理の妹・京子の身なりを出勤前に整えてやる手つきのまめまめしさも含め、男性陣には一切ないからこそ、義理の家族の同性への、ここぞというときのスキンシップから透ける気持ちの寄せ方にじっとりしたものを感じてちょっとびびった。これから直接的に父のケアを担わされるであろう京子にとって、義理の姉の存在は大きいものになるかもしれないけれど、妹へのでかい矢印フラグが見えて、京子気をつけて?!とも思ってしまった。これをシスターフッドと呼ぶのはちょっと何か違うと思わせる距離の詰め方。

 


「義理の嫁」である原節子を中心に見てしまいがちだけど、子どもはおらず(たぶん)、自分が経営する美容院でバリバリ働く長女の、実の親に対するからりとした距離感は見ていてけっこう救いだった。母への余命宣告に泣き出すのも泣き止むのも早い。通夜の食事の場で、父の方が先ならよかった、と当人が席を立ったちょっとの隙にあっけらかんと口にする姿が、でもこういう人いるよね、と思わせる、悪人ではないほどよさで描かれていること。

 遠方に住む親しい人の危篤に駆けつけるときに喪服を持参する/しない問題は永遠の課題な気がする。喪服エピソードも含め、全編を通して、見ていて若干気まずくなる、そのドキッ!で鑑賞者に何かを強烈に印象付けるようなエピソードを入れ込む方法が好みだなと思う。

 


 また、父と母の、ただにこにことそこにいるだけで娘や息子たちに何かを期待しているように感じさせるオーラの描き方がとてもうまいので(演出というより親というのはみんなそういうものかもしれませんが…)、そりゃ東京見物連れてこうとするよね、でもめんどうだよねと思うし、そういうところに原節子みたいな義理の妹がいたら使ってしまう、それでも間が持たないなら熱海にでも行ってもらいましょうか、お金出すくらい安いもんよ、となるよな〜〜とめちゃくちゃ納得しつつも、子どもらに厄介者扱いされていることをうっすらと感じている、大きな感情を表情には載せない父と母のまるめた背中に罪悪感をおぼえてしまう、ので子どもへの期待をむげにもできない、というスパイラルに陥る…そうなったときに非実在嫁の原節子に自分の中のなけなしの孝心を託して、ありがとう節子…私はあなたのようにはできないけど…みたいに見てしまう可能性もなくはないのかもしれなかった。たぶんそういう映画ではないが…

 

 

 

印象深いシーン箇条書き

・祖父母の部屋を用意するために机を片付けられた子どもが駄々をこねる様子が、勉強机として普段遣いしていなかったとしても、子ども部屋がない子どもにとってみたら、机のあるなしで自分の居場所が奪われてしまったかのように感じるだろうなと気持ちがよく伝わる場面だった

・熱海旅行の眠れない夜の描写とふたつ揃えた靴のカット。うるさい!と怒鳴ってくれたらよっぽどよかったけど、それすらない、団扇で身体を叩く姿を延々見せられることによる、カタルシスのなさのつらさ…

・今夜の宿のあてを求めて二手に分かれる父と母が上野公園で座り込む様子

・義母を泊めた夜、布団に仰向けになる原節子の寝る直前の横顔。ただぼんやりしているだけでも、何かを深く考え込んでいるように見える顔。

・義母が忘れがちな傘をいそいそとうれしそうに手に取る原節子

・実母の危篤の電報を受け取った時の長男長女の腰の重さ

・墓に布団は着せられぬ

「Hey, you bastards! I’m still here!」(ちくしょう)あたしはまだ生きてるんだ。伊藤比呂美『道行きや』

Hey, you bastards Im still here!」(ちくしょう)あたしはまだ生きてるんだ。伊藤比呂美『道行きや』

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 カリフォルニアから日本に帰国して、早稲田と熊本を行き来している伊藤さんの、連載エッセイと書き下ろしエッセイをまとめた本。ずっと読んでみたい詩人の一人として頭にあったのに、試し読みでひきこまれたエッセイから手をつけてしまった。

 

 あたしはこう思った、こうした、とぽんと放り出される言葉は気負いがなく読めるようでいて、今なんか物凄いことが書いてあった、と思わず立ち止まってしまう箇所がいくつもある。書いてある内容が難解なわけではないのに、植物から犬猫、人間まで、生き物の生死の取り扱い方にいちいちハッとしてしまう。生き物が老いて、いなくなっていくことを想像するだけで勝手につらくなって、積極的に生活をともにする構成員を増やすのはやめようと、植物やペットに対しても腰が引けている人間なので、伊藤さんからしたら勝手にすればという内容だろうけど、命あるものへのピントの合わせ方、ぼやかし方のグラデーションを読みながら、自分の漠然とした「辛さ」をもう少し細やかに分けて考える必要があるなと、度々思っては実行に移せていない考えが再度浮かんだ。

 

 伊藤さん自身の耳が聞こえづらくなったことにより、夫が補聴器を使いたがらなかった記憶を思い出す箇所が特に印象に残っている。

 

そのhumiliationgな感じとはどんな感じだっけ。思い出してみた。

 恥ずかしいというのとは違う。恥ずかしいわけではないのだ。だって、年を取って、髪が白くなり、目が見えにくくなり、膝が痛み、月経がなくなり、耳の聞こえが悪くなる。全て何も恥ずかしいことではないのだ。

 ただ人には、前を向いて、頭を上げ、立ち上がって歩き出そうとする特性がある。それが意味もなく否定され、押しつぶされる感じた。それで頭を上げられず、前を向けず、立ち上がれないような、もどかしい感じでもある。(「耳の聞こえ」p.33

 

 脱走した犬を追いかける「鰻と犬」、「山笑う」を発見した「河原の九郎」、市民権獲得を考える「ひつじ・はるかな・かたち」、嫉妬や不在を感じ取る犬を観察する「犬の幸せ」

 

Hey, you bastards Im still here!」に、全然文脈は違うのだけど「のたれ死にしたって、わたくしの人生ですわ」(木原敏江『ユンター・ムアリー: 摩利と新吾欧州秘話』)をなぜだか思い出した。

 

 エッセイの中で学生時代に受講していた「文学とジェンダー」という講義と再会し(教員は変わるけれど科目名は変更がないのだと思う)とても懐かしい気持ちになったけど、”川の水みたいに、次の瞬間いなくなる”学生の立場だったため、何かに感銘を受けた感情の記憶だけ残って、何かの内容を綺麗さっぱり忘れてしまっている。リアクションペーパー

「現実八割幻想二割」『MONKEY』 vol.23 特集 ここにいいものがある。

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岸本佐知子柴田元幸短篇競訳」と聞いたら、岸本さんの翻訳文学行商人としての手腕に魅入られている人間として読まねばと思う。だいたいいつも買ったあとめちゃくちゃ積んでしまうんだけど、今回は短編ということもあり、えいやっと旬のうちに読めて嬉しい。毛糸との接続がいったん途切れ、読書につながった感覚がある。このブログのタイトルは一応yomuamu(読む編む)なので…

柴田さんの翻訳本は未読と思っていたら、レベッカ・ブラウン(好きです)を読んでいた。

 

 岸本さん訳のサブリナ・オラ・マークの短編3作を一気に読み、これはいったい、と頭の中がクエスチョンマークで満たされたけど、同時にわけがわからんものを読みたい気持ちも満たされた。「廊下で、娘まみれのお母さんと出会う。全部で五人」「娘は十五に増えている」(!??)みたいな容赦ない畳み掛け方の迫力に飲まれる。

 

 めちゃくちゃ岸本さんが好きそうなのがわかる(おこがましい物言いだ)ルイス・ノーダン『オール女子フットボールチーム』はオール女子フットボールチームの内側(女子)の視点ではなく、それを指をくわえてみている「女どうしの絆に嫉妬する」男子視点なのがいい。外側から見つめる男子によって女子が客体化されているのではなく、主体を取り戻した女子を見つめることによって自らを客体化の対象とし、最終的に男子の自分を意識し直す物語にも読めるし、それがユーモラスかつ切実なものとして語られているところ。男の子になりたい女の子の物語を読んでいた頃の自分が、これって「男の子になりたい女の子になりたい男の子」の話じゃない!?と興奮している。

 女子の美しい男装に対して、コミュニティのなかで一種の罰ゲームとして扱われる「女装」が、主人公にとって切実なものに変わる瞬間を「幻想2割」で描くバランスを、冒頭で南部の男性としての「男らしさ」をことさら強調される主人公の父にとっての女装の意味も併せて考えた。

僕の心の中には確かに欲望が、愛と言ってもいいものがあって、でもそれは黒とゴールドをまとったこの女性たちに向けられているのではなかった。

ルイス・ノーダン『オール女子フットボールチーム』(p.32)

 幻想成分多めの小説を面白がりたい気持ちは多分にあるけれど、マジックリアリズムに全振りしているとわたしは着地点がわからなくなるときがある気がするので、やはり現実8割幻想2割くらいが好みなのかもしれない。

 岸本さんの翻訳ものを読んでいると、絶対に体験したはずないのに、いつかどこかで出会った感覚に再会して懐かしさで泣きたくなるような瞬間があって『オール女子フットボールチーム』もそれだった。

僕は変わりばえのしない僕のままで、でも大太鼓の表面の弓と矢の毛羽立ったロゴマークと、それをぐるりと取り囲む〈ARROW CATCHER, MISSISSIPPI〉のかすれた文字は、お前のダメな部分がお前の敵ではないのだと僕に告げていた。

こういう箇所にいつまでもハッとしてしまう大人です。

 

 

 柴田さん訳ではカミラ・グルドーヴァ『アガタの機械』が特に好き。本当は大して仲良くなく気も合わないけどある目的のために放課後毎日一緒に時間を過ごす女の子二人、という設定がもうそれだけで良い。二人の遊びは光景が鮮やかに浮かぶようなぼんやりとしているような、じゃあなんでそれに延々と魅入られてしまうのかわからないようで、そういうことってあるよな、という謎の納得感もある。

 

 おふたりの対談が間あいだに挟まっているのも、友人に勧められてなんども聞き返した翻訳文学ラジオの鼎談を思い出し、嬉しくなってしまった。現実8割幻想2割くらいの話が網に引っかかるようになった岸本さんが、前は「幻想十割上等」と思っていたという箇所は、字面から肉声が響いてくるようなおもしろさがある。比率はもう少し幻想に寄っていたとしてもその中に現実に根ざしているとおぼしき人やものの細やかな描写がしっかりあるのがいい(意訳)という話にとても納得。アホウドリがぬめっと存在感をあらわにしていたり、雨でびしょ濡れになってそれ自体が泣いてるように見える靴下のせいで机の下にできた水溜りを後ろの席からのばした脚でならしてごまかしてくれる同級生との親しくなり方とか。

 

『変愛小説集』を積んでいたのでほくほく崩したい。

「変愛小説集」既刊・関連作品一覧|講談社BOOK倶楽部

 

既読の岸本さん訳短編集だと、『楽しい夜』が特に好き。ルシア・ベルリンもミランダ・ジュライも入ってる!

bookclub.kodansha.co.jp

「よく聞きなさい、秀雪。あたしは、今、あなたのそばにいてあげられない。でも、かのじょは片時もあなたから離れることはないわ」 温又柔『魯肉飯のさえずり』

 「よく聞きなさい、秀雪。あたしは、今、あなたのそばにいてあげられない。でも、かのじょは片時もあなたから離れることはないわ」

温又柔『魯肉飯のさえずり』

 

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 母と娘、台湾をルーツとし、日本に住む二人の主人公視点の章が交互に展開される物語。これまでのエッセイや小説もほとんど読んでいるので、温さんが何を核にして書きたいかという思いはひしひしと伝わるのだけど、娘の夫やその家族の描き方の厚みが、対する主人公側の家族、親族の書き込みと比べてかなり薄く思えてしまい、彼らが登場する箇所を「書きたいことのための設定」という意識を常にどこかに置いたまま読んでしまったのは、私の先入観の問題かもしれないけれど少し残念だった。「書きたいことのために設定を作る」ことは当たり前なのだろうけど、こういうテンプレート設定の男と家族像をわかりやすい障壁として持ってくる物語ってあるなという物語進行上の便利な存在のように思えてしまい、特に第1章はその設定を読者に説明する部分という意図を強く感じた。

 「加害者」側の彼らにも理由があった、という物語を読みたいわけではないし、日本社会が想定する「普通」の家族のほころびを描くためのあえての薄さとは思うのだけれど。また、その「家族」に対峙する主人公側の「家族・親族」像の、何があっても一緒に悩み受け止めてくれるどっしりとしたあたたかさが、私にとって少し窮屈なもののように感じられたのも引っかかってしまった理由の一つではある。

 

 子どもに対する期待を義理の家族からかけられると辛いけど、血の繋がりがある親族からならばそこまで辛く感じなかった、という桃嘉(娘)の心理描写も、発する側への印象によって言葉の受け取り方が違うという体験は実際あるものだけれど、そこに言葉(桃嘉は自由に使いこなせる言葉として叔母たちの言葉を受け取っていないというクッションもあるが)と血の縁が密接に絡み合っているから、という背景を透かして見てしまうと、個人的には距離を置きたいタイプの物語としての側面も見えてきてしまう。

 相手のためを思ってというおせっかいさの性質の紙一重さ。それがうれしい時と苦しい時、両方矛盾なく存在するという事実も承知のうえで、物語の中での描かれ方って難しい。その描写の塩梅が、ある意味血縁重視の社会の歪さが、別の血縁によって解決される物語ともとらえられる見方もできるなと思ってしまった。作中で円満に生活する秘訣として提示されていた、家庭の中で夫になんでも言える妻、のように、家族同士でもぽんぽんなんでも言い合えることが理想とされているならば良いのだろうか。こう言われたら嫌、ということを相手が先んじて言わないように回避するのではなく、言われたら嫌と言い返すことで、対話の中で生まれていく関係性であれば? でもその関係性も「家族」ありきなのか。

 その「家族」が仕事が忙しくて専業主婦の雪穂(桃嘉の母)に引越し準備を全振りしている「優しい夫」ありきで構成されているのが、1993年という設定を考えれば「優しい夫」像のリアリティもわかるし、雪穂が日本にやってくるのもそういう働き方をしている夫ありきなのはわかるのだけど、2020年に書籍化された(雑誌掲載は2018年)物語の設定として私はあまり素直に受け取れなかった。「嫁ぐ」ということの扱い、諸々の基盤の描き方を考えると桃嘉(娘)の名字の取り扱いも、生まれた時からの名前へのこだわり以上に「家族」「家」という単位を重視している風にも読み取れてもしまうのはうがった見方だろうか。(台湾では夫婦別姓だけれど、雪穂(母)は日本に帰化しているためその選択肢はなく、「家族」という単位の重要性を母が娘に説く場面がある)温さんのエッセイ等から感じ取っている主義を思うと、その意図はないんだろうなとは思うのだけれど、本作だけ読むとよくわからなくなってしまう。

 『来福の家』を読んだときは、温さんのエッセイを読んでからだと(ご本人の経験からのエピソードだな)という箇所がくっきりしてしまうところもありつつ、物語のなかで再度語りなおされることで立ち上がってくるものもあるとポジティブに捉えていたけれど、今回は(またこのエピソードだな)(重要なテーマとして度々取り上げたい意図はわかるけれど)という印象の方が強くなってしまった。

 

 雪穂(母)は桃嘉(娘)の自立心を重んじているし、お互い個として向き合う物語として描かれているとは思う、思うけれど。自分の根っこを強く意識してそれをポジティブに受け止める物語のバリエーションの一つとしてあまり好みではないかもと考え込んでしまう要因には、その根っこについて深く考えずに生きてきた私自身の特権への無自覚さもあると思うので、自分に合わないと感じただけでこの物語を否定できるはずがない、否定したいわけではない。

 

 しかし私が引っかかった要素を逆にポジティブに受け取った人は多いだろうなと想像しているので、日本の社会で台湾をルーツとする人たちが生活を送ることで直面するもの、私も含め、読者の多くがその障害を生み出す側の属性を持っていることを穏やかに突きつけつつ、血縁家族・親族の結びつきが肯定的に描かれた物語であることは共感を得やすいのかもとは思っている。(ロマンスに結びつきそうな老師のエピソードも含む)