長島有里枝『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトヘ』

『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトヘ』を読んだ。

 

http://www.daifukushorin.com/book.html

 

「女の子写真」は当人らを無視し、他者によって貼られたラベルだった。新たな女性写真家の台頭に脅威を感じた男性らが、おのれの持つ発言力を行使して、使うカメラもコンセプトもそれぞれの個性豊かな写真家を「女の子」というひとつの枠のなかに括って安心するための檻だった。女性が男性社会の写真という職場において、どういう立場に置かれるのかを念頭に置いた上で、個々の作品を語ることと、それはまったく別のこと。

 

それが称賛であっても非難であっても、当事者が自分たちの声で語る場がない状態で、ある言説を繰り返し唱え、通説としてしまうこと、その通説を信じ込んでしまうことについて、もっと慎重になるべきと、女性写真家を語る上で「カメラの軽量化」がキーになると信じ込んでいた自分の単純さに愕然としたいまだからこそ、より強く思う。

 

"「女の子写真家」とは、ある日突然“自分の物語"を誰かに代弁されてしまった人びとである。"(p.210)という一文が強く印象に残っているのは、そうやって自分の声で語ることが許されずにいた、たくさんの人びとに通じる言葉だと感じたから。この本のコンセプトを思えば、安易に普遍化するべきではないかもしれないけど、でもジェンダーによる不均衡な権力構造を踏まえた上での、と考えると、そう言わずにはいられない。

 

言説を強化する巧妙な文章もある一方で、そんなの彼女たちにひっかぶせた欲望を言葉のかたちに固めただけで、写真の評価ではいっさいなくない?!なんで「写真家」への質問に得意料理と今晩のメニュー、究極のメニューが入るんだ?!とあまり「僕ら」目線、「女の子」のなめられようにキレていた。そういうふうに思われると君たちは困るだろうから気をつけてね、って「そう思ってる」のは誰なんだろう?おばけか?

 

一方で、撮る側と撮られる側の不均衡について考えた上でセルフポートレートを選択し、作られたプライベートを「自然なもの」らしく見せることでその意味を考えさせること、自分や手が届く範囲のお気に入り、大好きな友だちを写真に収めることもまた、それまでの価値観を反転する力を持つ「個人的なことは政治的なこと」じゃん!と読みながらずっと浮かんでいた言葉が最後の方で登場してうれしかった。