この目は閉じられているのよ、見るために。/J・M・クッツェー『鉄の時代』

J・M・クッツェー『鉄の時代』

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翻訳家のくぼたのぞみさんの名前をアディーチェの作品で知り、サンドラ・シスネロス『サンアントニオの青い月』『マンゴー通り、ときどきさよなら』の文章に強く惹かれてから、いつか同じ方が訳したクッツェーも読んでみたいと思っていた。

 

『鉄の時代』はアパルトヘイトが崩壊し始めた1986年、南アフリカケープタウンの白人住宅街に住む、末期ガンの70歳の女性、ミセス・ヘレンが娘に宛てた手紙の形式をとった物語だ。彼女の自宅の敷地に現れたホームレスとの交流、対話、彼女の独白から、娘への、子どもへ、そして具体的な誰それ、と名がついていない、旅立った世界に残していく生命への愛と執着が浮かび上がってくる。

そしてそれは同時にこの地で、白人住宅街で生きていることの意味とも結びついていく。

 

離れて暮らす最愛の娘に宛てた手紙という形式も作用していると思うけれど(作用させるためにこの形式を筆者は選んだ、が正しいかもしれない)、主人公のカレンの、人生において愛情を傾けるもの、自分がこの世界から旅立った後も残る形見のような存在の重要性を語る淡々とした独白に、彼女にとっての子どもという存在の比重に驚く。

 

「抱擁し、慰め、救ってほしいと頼むなんて。慰めも、愛も、先へ先へと流れるべきものであって、後ろ向きであってはいけないの。それがルール、いまひとつの鉄則よ」

p.107

 

「あなたに子どもがいるかどうか知らないけれど。男の人がそうなのかどうかも知らないけれど。でも、自分の身体から子どもをうみだすときは、その子どもに自分の生命をあたえることになるの。とりわけ最初の子には、最初に産む子には。あなたの生命はもうあなたと共にあるのではなく、あなたのものでもなく、その子と共にある。だから私たち、本当は死なないーー」

P.111

 

血を分けた子に限定した愛情深さを過度に感動的に語る語り手には、その人物の性別を女にした小説には特に身構えるたちだ。けれど詩的な、豊かな表現で書き記される彼女の愛情が、「手紙」が書き進められる中で、実の娘だけに限定しない広がりを見せていくので、その行先を見届けたくなってしまう。

 

それはもうすぐ命が尽きようとする側が、自分がまだ見ぬ道の先へ進む若者を眩しく見つめ、そこに自分の生きていた証をわずかでもいいから残したいと焦がれると同時に、その人たちの生に対して責任を果たすことなのかとも思う。

 

「お願い、聞いて。わたしは無関心ではないのよ、これに……この戦争に。そんなことは不可能よ。それを締め出しておけるほど、分厚い柵はないんだから」泣きたかった。でも、ここで、フローレンスのそばで、そんな権利がわたしにあるのか。「それはわたしの内部で生きていて、わたしはその内部で生きているのよ」ささやくような声になった。

p.151

 

カレンから誰かへの言葉は、老いた人間から、年若い人たちへという構図だけを取るのではない。

「絆」で結びついた反アパルトヘイト組織で暗躍する少年に、彼らをその「絆」へと駆り立てる大人に、カレンが鋭く言葉を投げかけるその構図は、女性による、男性性の負の側面、悪しきホモソーシャルへの指摘とも読める。

 

「老人の話にたいくつしてるわね、わたしにはわかるわ。早く一人前の男になりたくて、男の仕事がしたくてうずうずしている。人生のための準備に飽き飽きしている。人生そのものを始めるときだ、そう思っているのね。ひどい間違いよ、それは! 人生は、棒やボールや、旗や、銃についていくことじゃないの、そんなものがどこかに連れていってくれると思ったら大間違い。人生はこれからやってくるものじゃないのよ。あなたはもう、人生のただなかにいるの」

p.215

 

「同志の絆というのは、死の神秘的解釈に他なりません。殺すことに、死ぬことに、仮面をかぶせて偽装させることですよ、あなたが絆と呼ぶものは(なんの絆? 愛? 違うわね)。この同志の絆にわたしはいかなる共感も感じません。あなたは間違っています」

「排他的で、死に急ぐ、男の構築物の一つ」

p.220 

 

けれどこれらの言葉は彼らには届かない。彼女の言葉によって対話が成り立つ場面としては描かれていない。

カレンが彼らに寄り添おうとする姿勢と、彼らからの腕力に任せる訳ではない、けれど沈黙の深さや丁寧な返答から伝わる「あなたは私たちからひどく遠くにいる」という断絶が繰り返し描かれる。

カレンが感じている責任は、若者へだけでなく、白人住宅街に住んでいない人たちへのものでもある。

 

カレンの言葉は人の生死に関わる戦争や、それを起こそうとする人々に対するものとして、個人的にはとても納得がいくものだ。しかしこの物語において、彼女は白人住宅街に住む側で、彼女が強く訴えかける側は彼女と同じ立場に属する人たちが、虐げてきた側の人たちでもある。

暴力を肯定するのではなく、しかしそれ以外にもやり方があるのだとしても、追い詰められてその行動を選んだ人たちにかける言葉として、カレンの言葉はもとから届く見込みがあるものだったのだろうか。

 

Black Lives Matterをめぐる活動に関して、言葉を奪われた人たちがとった、一部の暴力を伴う主張の方法に対して「正当な(暴力的でない)やり方でなければ、その主張の正当性をいっさい認めない」というのは、その人たちの立場の不均衡さを全く顧みない意見では、というツイートが記憶に残っていて、そんな考えが浮かんでしまった。私の曖昧な知識で、この状況を安易に結びつけていいのかわからないし、過激さにおいて、比べるようなものではないのかもしれない。私が思いつく程度のことを、実際にその立場にあった筆者が考えないはずはなく、そういう断絶のあり方も含めて、この物語は書かれているのかもしれない。くぼたのぞみさんの訳者後書きで簡単には触れてあったけれど、当時のことが書かれた本を読みたいと思った。

 

白人住宅街に現れたファーカイルという人は、あの土地で権利を獲得して生きている側、そうでない側、どちらの立場からも距離をとっている人で、彼とカレンの間においてのみ、対話が成立している、ということに込められた意味も、突き詰めて考えるととてもおもしろい。

 

感想を書くにあたってページをぱらぱらとめくっただけで、引用数がめちゃくちゃ増えそうだったので、再読したら、どのように表現されているか、により重きを置いた読書ができそう。

カルメン・マリア・マチャド『彼女の体とその他の断片』

カルメン・マリア・マチャド『彼女の体とその他の断片』を読んだ。

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「女の体」アンソロジーなのかな?と思うほど、印象ががらりと変わる短編群すべて同じ作者であることに驚く。題材から心の距離を近づけて読みたくなりがちだけど、そんな心構えをしていると身をかわされるようなつかみどころのなさもふんだんにまぶされていて、これはそういうもの、と割り切って読むと逆にピンとくる瞬間があったりする。『母たち』の三作までふむふむと読んでいたら『とりわけ凶悪』でいきなり知らないところに放り出されて途方に暮れたけど、途中からこういう場所もあると景色を眺めることに徹してずんずん進んだ。目がベルの女の子たち、実写化では絶対見たくないけど文字で読む分にはぞぞっとした感覚とともに忘れ難さがある。

わかるわかる、と思って読む物語はしんどいときもあるので、行間からじわりとにじみだすもやがなじみのあるものであるかもしれない、と目を凝らしたり匂いをかいだりするくらいの距離の読書も必要だと感じる。しかしまた読み返したらピンとくる箇所が変わりそうだ。

『母たち』の食べ物(おいしさ問わず)と『本物の女には体がある』のドレスの描写の豊かさが好き。特に後者はめちゃくちゃ皮肉が効いているタイトルからして何度も呟きたくなる。岸本さん訳なのが納得しかない。「女たちが消える」のが不景気の真っ只中に始まった現象であること、「消える」ことを恐れる登場人物の心情描写に生々しさを覚えながら読んだ。

 

訳者後書きで、影響を受けた作家の一人に小川洋子がいるのを知って、読んでいると自分の身体との連続性を感じてちょっと具合が悪くなるところが誰かを思い出すなと思っていたので、かってに納得してしまった。『レジデント』は他の作品に比べてメッセージがストレートすぎる気もするけど、世俗から隔離された館に集められたアーティストという元々好みのモチーフをずらしてゆく物語なので、馴染みのよさを味わっていたらハッとさせられる、というバランスは個人的にはよかった。蛇行する川のほとり』あたりの恩田陸も思い出している(かってに)

 

『八口食べる』は、自分の体を自分が望む姿になるようコントロールしたいという欲望にどこまで従うべきか、その望みは女はかくあるべしとされている旧態依然とした価値観の内面化ではないかという問いかけがある物語だと思うんだけど、この短編に限らず現実では起こり得ない現象が描かれる短編集なので、こうすべきだ、とストレートに警告を発する話ではない。そのせいで、そのおかげで考え込む。

 

なりたい自分になる、その欲望は自分だけのもので、コントロールできることは権利であり、危険性も認識して選択するのであればそれはポジティブな行為である、という強いメッセージも、私にまた難しい。自分の決断であればそれを支持する、と他者の行為を称賛することはできても、翻って自分の話になるとまだどちらにも振り切れずにゆらゆら揺れながら日々を過ごすことしかできていない。

毎日がレジスタンス/松田青子『持続可能な魂の利用』

松田青子『持続可能な魂の利用』

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この作品もディストピアSFといっていいんだろうか?

基本設定めちゃくちゃ現代日本ですが。

 

恒常的な息のしづらさを当たり前と思っていないとこの国ではやっていけないと思いこんでいたけど、でもそれってなんでなんだっけ?だれに気兼ねをしていたんだ?少なくとも、生きづらいんですけど?!とひとり叫ぶことくらい、他人の目を気にする必要なくない?

そんな物語のバリエーションが増えてきつつある時代において、鼓舞される物語の一つとしての『持続可能な魂の利用』

 

日本で女として生きることで、魂の満タンチャージが「82%」くらいに減ってしまった主人公の敬子は、想像上の楽園に残りの「18%」を保険として預け、魂を自由な少女たちの姿で駆け回らせることで、現実をなんとか乗り切っている。××というアイドルグループにはまってからの彼女が楽園に想いを馳せるとき、少女たちは××たちの姿をとるようになった。

 

敬子が生きる現代日本パートの合間に、彼女の魂の少女たち(?)が敬子が生きる現代日本にまつわる「授業」を受け、思い感じたことを率直に話し合うパートがさし挟まれ、物語が進んでいく。

 

敬子にとって「18%」の魂が××の姿かたちをとっていることは、私にとってはタカラジェンヌをそれとして想像することと同じなのかな、と考えると、なんだかわかるような気がした。(自分ごととして置き換えるとあまりにもおこがましいが

 

きっとついていけなかった女の子も中にはいたでしょうが、アイドルとして異形を求められた彼女達は、異形であることを楽しんでいました。

 

(p.170

 

上記の文章は自分が好きな世界の彼女たちにも通じるように感じる。

 

こうあるべき、の縛りが強い世界で、でもその縛りをあくまでごっこ遊びのルールのひとつとして、真剣に、含み笑いでこなしてゆくこと。もちろんルールの程度にもよるのだけれど。

ふたつの世界を比較したとき、舞台に立つ側が女性で占められているという以外は異なる部分も多いけれど、一番大きく異なるのは、プロデュースが主にどういった客層に向けて行われているか、という点だと思う。

それは実際の女性ファンの数ではなく、プロデュースする側がメイン客層をどう認識しているか、それがこの物語のなかでどう捉えられ、描かれているかという話だ。

 

途中で差し挟まれる少女たちがアイドルについてのグループ研究成果を発表するパートでは、彼女たちのアイドルとしての××に対する見解が、そのまま作者の好きな現実のアイドルグループに対する作者の祈りのようにわたしには読めた。

 

しかしその解釈自体には夢を見つつも、モデルとなった現実の彼女らのことをそこまで知らない人間には、作中に描かれているほどの期待を寄せられる存在と認識できず、やっぱり「おじさん」のプロデュースしているアイドルだしなという意識の方が先に立ってしまい、この物語のなかではそういう存在として生きているんだな、という認識をするところまでしか落とし込めなかった。これは好みの問題もあるので、だからつまらないとか、そういう話ではない。

 

現実に「おじさん」がプロデュースした量産型アイドルグループにバリエーションがあり、そのひとつに傷付けられ、あるひとつに救済されるおかしさ、構造のいびつさという設定が現実に存在するインパクトは凄まじいので、この設定ありきで「おじさん」に「少女たち」が見えなくなる(見えなかったらプロデュースできないじゃん)という話が生まれたと思うのだけど、個人的にはモデルが明確すぎること、かつそのモデルが自分の好みとは少し異なるように思えることで、物語の根幹に関わる部分に乗り切れなさを感じたのかもしれない。

 

少女たちに置いてゆかれる側の「おじさん」が少女たちの声を使って、社会に服従するなとメッセージを発信する(というていをとる)滑稽さ、ある意味での醜悪な構造を踏まえつつ、「おじさん」が書いた、「おじさん」が押さえつけられるくらいのかわいい反抗心くらいしか育てる気がないだろう政治的な歌詞を少女たちが歌う過程で、意図していた範疇を超えて彼女らが意思を持ってしまった可能性にかける物語、というのはとてもおもしろい。

 

なぜ前者のような構造をはらんだ存在に惹かれてしまうんだろう?と掘り下げて描かれている物語なので、そういう構造を理解しつつ強烈に惹かれてしまうことがある、という心の動き自体はとても理解がゆく。その上で、わたしはあまり惹かれないかも、と思う。物語自体にのれるのれないは、もはや好みの問題でしかない。

 

 

 

敬子が職場を追われる事件の、気のせいか?と周囲に思わせるようなハラスメント具合のリアルさが、とてもなまなましく想像できるものでげんなりしてしまう。げんなりしつつも、彼女のために怒り、立ち上がる女性の姿に救われる。自分なら同じことをできるかと自問自答しつつ。

 

魂の少女たちが「女子高生」について学ぶ授業では、自分たちが「女子高生」に分類されていた時代、「女子高生」がどんな扱いを受けていたかを知って、言葉を失う場面に「あたりまえ」に慣れ切ってしまった自分がどんな恐ろしい国に生きているかを自覚する。

 

たとえば、わたしたちが今こうしているだけで、道を歩いたりしているだけで、性的な存在とされるなんて、普通に考えて意味が通らない。理解できない。

 

歴史には、戦争や侵略など恐ろしい出来事がちりばめられていて、その恐ろしい出来事には常に性的に搾取される女性の存在が付き物だった。

 

でも、この「女子高生」の時代に、日本では戦争は行われていなかったはずだ。

 

(p.116ー117)

 

あまりにも子どもを産みづらい国であった理由が明らかになってからの怒涛の展開、飛躍にぶっとばされつつ、最終的な「肉体」を持つには人類(日本人に限定?)は未熟すぎた、という結末に、土萠ほたるちゃんがセーラーサターンとして振り下ろす鎌が見えた。

 

生まれる子どもを増やしたいのに、なぜ保育園が足らないんだろう?

女性が働き続けないで子どもを養えるような、余裕のある家庭はこの国にはそこまで多くはないことが見えていないんだろうか?

なんでいまだに女が子どもを見るほうって暗黙の了解があるんだ?

そもそも婚姻関係にないペアが、ペアでない人間が子どもを育てやすくする仕組みを作ったら、子どもを安心して産み育てようと思う世の中に結びつく、という発想はないんだろうか?

 

いまの政府が想定している世帯以外で子どもが生まれること自体が問題、という発想から、こういう現実があることは想像がつく。でもこの物語のなかではその理由について、実はこの国では子どもを増やしてはいけないということになっているけど、そのことを公にできないので回りくどいいやがらせを国家事業として成していた、というオチがついていた。

 

な、納得〜!と思いつつも、日本が地球全体のバランスを鑑みて少子化を目指さねばならないハズレくじを引いた、ということにすると「おじさん」の仕事のうまくなさが「おじさん」のせいではなくなってしまう気もした。でも「おじさん」に退場してもらうにはもうそれくらいの事実(?)が明るみにならないと無理なのだろうか。

 

××たちが政権を握った後、国外に旅立った「ファン」のひとりはおそらく敬子で、そりゃあわたしも「I want more.」を叫べる国で生きられるならそれを選ぶと思いつつも、彼女は「推し」がつくる国で生きることは選ばなかったんだな、という選択がぐさりと刺さった。

 

肉体を失う兆しもなく、少女でもなく「おじさん」も見えなくならない国に生き続けるしかない人間は、せめて「おじさん」を忌み嫌いつつ「おじさん」にいつのまにか同化しないよう生きていきたいと願っている。

 

 

長島有里枝『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトヘ』

『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトヘ』を読んだ。

 

http://www.daifukushorin.com/book.html

 

「女の子写真」は当人らを無視し、他者によって貼られたラベルだった。新たな女性写真家の台頭に脅威を感じた男性らが、おのれの持つ発言力を行使して、使うカメラもコンセプトもそれぞれの個性豊かな写真家を「女の子」というひとつの枠のなかに括って安心するための檻だった。女性が男性社会の写真という職場において、どういう立場に置かれるのかを念頭に置いた上で、個々の作品を語ることと、それはまったく別のこと。

 

それが称賛であっても非難であっても、当事者が自分たちの声で語る場がない状態で、ある言説を繰り返し唱え、通説としてしまうこと、その通説を信じ込んでしまうことについて、もっと慎重になるべきと、女性写真家を語る上で「カメラの軽量化」がキーになると信じ込んでいた自分の単純さに愕然としたいまだからこそ、より強く思う。

 

"「女の子写真家」とは、ある日突然“自分の物語"を誰かに代弁されてしまった人びとである。"(p.210)という一文が強く印象に残っているのは、そうやって自分の声で語ることが許されずにいた、たくさんの人びとに通じる言葉だと感じたから。この本のコンセプトを思えば、安易に普遍化するべきではないかもしれないけど、でもジェンダーによる不均衡な権力構造を踏まえた上での、と考えると、そう言わずにはいられない。

 

言説を強化する巧妙な文章もある一方で、そんなの彼女たちにひっかぶせた欲望を言葉のかたちに固めただけで、写真の評価ではいっさいなくない?!なんで「写真家」への質問に得意料理と今晩のメニュー、究極のメニューが入るんだ?!とあまり「僕ら」目線、「女の子」のなめられようにキレていた。そういうふうに思われると君たちは困るだろうから気をつけてね、って「そう思ってる」のは誰なんだろう?おばけか?

 

一方で、撮る側と撮られる側の不均衡について考えた上でセルフポートレートを選択し、作られたプライベートを「自然なもの」らしく見せることでその意味を考えさせること、自分や手が届く範囲のお気に入り、大好きな友だちを写真に収めることもまた、それまでの価値観を反転する力を持つ「個人的なことは政治的なこと」じゃん!と読みながらずっと浮かんでいた言葉が最後の方で登場してうれしかった。